現在の日本では皇太子不在の状況が続いています。秋篠宮殿下が行った立嗣子の礼は、立太子の礼ではなく、ただ、現天皇の弟である事を確認するだけの前例もない政府の無駄な誤魔化しです。さて、皇室と言えば全て先例踏襲のようですが、それは正しくありません。皇室は古代から大胆な改革を繰り返し、現在まで存続してきたのです。例えば奈良時代まで、天皇の妃には皇族しかなれませんでしたが、その前例を破り皇后即位の範囲を広げたのが文武天皇でした。
藤原氏の娘を妃とした文武天皇
文武天皇は、天武天皇の孫でしたが、父である草壁皇子は即位する前に病死しました。その時、軽皇子(かるのみこ)と呼ばれた文武天皇は7歳に過ぎなかったので、祖母である鸕野讚良皇女が持統天皇として即位し軽皇子が15歳になるまで上皇として政治を運営します。
皇后を置かなかった文武天皇
即位した文武天皇には、妻はいましたが正妃である皇后を定めませんでした。それには理由があり、当時の慣習では天皇の皇后は皇族から出される決まりになっていたからです。当時は女帝が当たり前に存在していたので皇族以外の皇后を立て、天皇が崩御して皇太子が幼い場合に皇族ではない女帝が即位する事を忌み嫌ったのです。
しかし、文武天皇が寵愛した宮子は皇族ではなく藤原氏であり文武天皇は皇族勢力に配慮して宮子を皇后に立てませんでしたが、宮子との間には男子が誕生し首皇子(おびとみこ)と呼ばれます。こちらが大仏開眼で有名な聖武天皇です。
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聖武天皇が藤原氏出身の光明子を皇后にする
文武天皇が崩御した時、首皇子は7歳だったので、後見人として元明天皇の娘である元正天皇が即位します。その後24歳で即位した聖武天皇は藤原氏出身の光明子を皇后としようとし、皇族出身の長屋王などと対立、長屋王の変のような凄惨な粛清事件を経て、光明子が皇后に立后されました。
孝謙天皇が即位しタブーが完全に破られる
聖武天皇と光明皇后の間には、基王(もといおう)が生まれますが1歳で夭折、その後阿部内親王が誕生します。聖武天皇には、県犬養広刀自との間に男子、安積王がいましたが、こちらも天平16年(744年)に脚気のため急死、皇子はいなくなりました。
そのため、聖武天皇は阿部内親王を皇太子とします。これも皇室始まって以来であり、同時に現在までで唯一の女性皇太子でした。天平勝宝元年(749年)に聖武天皇は、阿部内親王に譲位、内親王は孝謙天皇として即位します。奈良時代は皇室のありかたが今以上に激変した時代なのです。
勇気ある2人の天皇がいなければ…
もし、文武天皇が藤原氏の娘である宮子が産んだ首皇子を皇太子としなければ、聖武天皇が皇族ではない初の皇后、光明子を立てる事はなかったでしょう。光明子が皇后にならなければ、史上唯一の女性皇太子であり天皇、孝謙天皇も誕生しなかったはずです。皇室は、皇族しか皇后になれないという非常に狭い縛りの中で近親相姦が続き、ハプスブルグ家のように病弱で不能な男子しか誕生しなくなり、現在よりも遥かに早い段階で皇統が途絶えたかも知れないのです。
もちろん、皇后を妃にするというのは天皇の後ろ盾になった藤原不比等と後継者である藤原四兄弟の陰謀でもありますが、そうであっても結局、藤原氏が皇室を乗っ取る事はなく、むしろ皇室が安定して続くように間口を広げたという事実は揺るがないでしょう。
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