豊臣秀吉は天下統一後2回朝鮮に出兵しました。1592年の文禄の役と1597年の慶長の役の2回で、慶長の役の途中で秀吉が病気で死亡したことにより朝鮮出兵が終わりました。
今回は、豊臣秀吉ではなく織田信長が生きていて朝鮮出兵をしたらという仮定で、信長は李氏朝鮮(朝鮮国)に勝つことができるのかという話をします。この記事の前半で、秀吉の朝鮮出兵で失敗した要因を取り上げます。この記事の後半で織田信長の戦いの中から木津川口の戦いを紹介します。
豊臣秀吉の朝鮮出兵
豊臣秀吉の朝鮮出兵は文禄の役と慶長の役の2回あります。文禄の役について、秀吉は肥前の名護屋城で指揮をとり、15万の大軍を朝鮮半島に送りました。1回目の文禄の役は朝鮮半島の北部平壌まで進むことができましたが、朝鮮義兵や明の抵抗により戦局は膠着状態となりました。1593年に明と講話することで文禄の役は終わりました。
李氏朝鮮の水軍を率いた李舜臣が秀吉の軍の補給路を断ったことが敗因に要因となりました。鉄板の装甲を施した亀甲船に苦戦したことも敗因の要因です。
文禄の役の講話が秀吉の意図と異なりました。秀吉は1597年に再度朝鮮に出兵したことで始まりました。この2回目の朝鮮出兵のことを慶長の役といいます。2回目の朝鮮出兵は当初から秀吉の軍が苦戦していました。1598年に秀吉が病気で死亡したことにより終わりました。
木津川口の戦い
織田信長が生きていて朝鮮出兵をしたら李氏朝鮮に勝てるのか、読者の中には気になる人がいると思います。ここでは、織田信長の数多くの戦いの中から村上水軍との戦いである第一次と第二次の木津川口の戦いを取り上げます。
織田信長は各地で起こった一向一揆の中で特に石山本願寺の抵抗に長年にわたって苦しんでいました。織田信長は石山本願寺を包囲していました。石山本願寺は中国地方の大名の毛利輝元に援軍を求めます。木津川の河口で織田信長と毛利輝元の水軍が衝突しました。この戦いを第一次木津川口の戦いといいます。
結果は織田信長の水軍が壊滅的な損害を受け、敗れました。毛利輝元は石山本願寺に食料を運び入れることに成功しました。
1576年の第一次木津川口の戦いで、毛利輝元の水軍の焙烙玉が原因で壊滅的な損害を受けたことを踏まえ、織田信長は次の戦いで秘策練っていました。織田信長の配下で九鬼水軍を率いていた九鬼嘉隆に鉄甲船を造るように命令しました。
1578年の第二次木津川口の戦いで、織田信長の率いる水軍は鉄甲船6隻を率いて毛利輝元の水軍と戦いました。この鉄甲船には大砲が装備されていて、縦22メートル・横12メートルの大きさがありました。鉄で覆われていたため、村上水軍の焙烙玉に対する攻撃を跳ね返すことができました。
第二次木津川口の戦いの結果、織田信長の水軍が勝利し、石山本願寺を封鎖することに成功しました。この戦いの後、石山本願寺は織田信長に降伏し、明け渡すことになりました。
木津川口の戦いで使用した鉄甲船について、第二次木津川口の戦い以降、使用されることはありませんでした。鉄甲船の存在についても史料などで残されておらず、今後の研究が期待されます。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は織田信長が生きていたら李氏朝鮮に勝てるのかという仮定の話を取り上げました。第二次木津川口の戦いで使用した鉄甲船を使っていれば、朝鮮出兵で活躍した李舜臣の水軍を破ることができた可能性があります。織田信長が生きていたら、朝鮮の水軍の戦い方を分析した上で戦いに挑むと考えられます。
このような理由で、織田信長が生きていたら李氏朝鮮に勝てるという結論になりました。朝鮮に勝つことができれば、世界中にスペイン・ポルトガルに次いで植民地を求めて世界の覇権を争っていたのかもしれません。日本が帝国主義の第一線にいた可能性が高いです。
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