今回は本能寺の変を決意した明智光秀が詠んだ辞世の句を紹介します。
最初に、本能寺の変を決意した有名な句を取り上げます。次に、本能寺の変を起こしたときに詠んだ句を紹介します。この記事の後半では、坂本城跡にある明智光秀の功績を讃える石碑に刻まれた句について取り上げます。
明智光秀は本能寺の変を決意!
本能寺の変を決意した句として「時は今 雨がしたしる 五月かな」が有名です。この句は、明智光秀が1582年5月24日に山城国の愛宕山五坊の一つである威徳院で詠んだ句です。威徳院で連歌師を招いて連歌を詠んでいました。当時、光秀の句など愛宕山で詠んだ連歌については愛宕百韻に収められています。
なぜ「時は今 雨がしたしる 五月かな」が織田信長を裏切ることを決意した句と解釈できるのでしょうか。この句の「時=土岐」、「雨=天」、「したしる=下知(治)る」にそれぞれ置き換えると次のような解釈ができます。明智光秀の出身である土岐一族は今、天下を治めようとしているという解釈ができます。
この句はドラマなどで明智光秀の詠むシーンが放送されていることから実際にあったと考えられがちです。しかし、実際に愛宕百韻に収められた句は「時は今 雨がしたなる 五月かな」で、何らかの形で書き換えられたという説もあります。
本能寺の変を正当化!
本能寺の変といえば、「時は今 ・・・」という句が有名ですが、本能寺の変を正当化するために詠んだ句も伝えられています。
「心しらぬ 人は何とも 言わばいへ 身をも惜しまじ 名をも惜しまじ」です。この句の意味は次の通りです。「自分の心を知らないまたは理解できない人は何とでも言えばよい。身分も名誉も惜しくない」という意味です。
本能寺の変を起こすに当たって、明智光秀が織田信長を倒すことが正義であると主張していると考えられます。光秀は正当性を主張し、細川藤孝や筒井順慶らを味方につけることを考えていましたが、豊臣秀吉の味方となったため山崎の戦いでは戦況が不利になりました。
山崎の戦いで豊臣秀吉の軍に負けた後、明智光秀は坂本城に逃げる途中で農民に討たれました。
他に明智光秀の句はあるのか?
滋賀県大津市の坂本城跡に明智光秀の功績を讃える石碑があります。坂本城跡にある句は「われならで 誰かは植えむ 一つ松 心して吹け 志賀の浦風」です。この句は琵琶湖にある唐崎の松が枯れてしまったことを惜しむ歌です。明智光秀の人柄を知ることができます。
この句の隣には明智光秀の生涯についてまとめられています。明智光秀については優れた武将だけでなく、文化人と親交があったことや茶の湯・連歌・詩歌に造詣の深い人物でもあると紹介されています。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は明智光秀の辞世の句について取り上げました。この記事の前半では、本能寺の変を決意した句「時は今 雨がしたしる 五月かな」と本能寺の変を正当化した「心しらぬ 人は何とも 言わばいへ 身をも惜しまじ 名をも惜しまじ」について紹介しました。
愛宕山の連歌会で詠んだ「時は今 雨がしたしる 五月かな」という句について、当時参加していた連歌師はどのように感じたのでしょうか。参加した連歌師の中に、この句を聞いて直感で織田信長を討つという決意が込められていると理解した人がいたのか気になります。気付いた人がいたら、明智光秀が裏切るという情報が漏れていた可能性があります。
「心しらぬ 人は何とも 言わばいへ 身をも惜しまじ 名をも惜しまじ」という句を紹介した際、光秀の味方になると考えていた細川藤孝や筒井順慶らが豊臣秀吉の軍につきました。本能寺の変を正当化できたとしても、光秀の味方にならなかった要因として、秘密裏に起こしたことが挙げられます。本能寺の変については動機などほとんどが謎のままです。今後の研究に注目したいと思います。
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