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[歴史の裏側]岳飛が亡くなった後の南宋官界、その衝撃の変化!

2023年6月28日


岳飛(南宋の軍人)

 

岳飛(がくひ)南宋(なんそう)(1127年~1279年)初期の武人(ぶじん)です。北宋(ほくそう)(960年~1127年)が(きん)(1115年~1234年)により滅亡させられたことにより、軍に入隊して頭角を現しました。

 

一兵卒から軍の総司令官にまで成り上がりましたが、金との和議を望む宰相の秦檜(しんかい)や南宋初代皇帝高宗(こうそう)と対立をしました。その結果、子の岳雲(がくうん)や部下の張憲(ちょうけん)と一緒に無実の罪で投獄されて紹興11年(1141年)に殺されました。

 

39歳の若さでした。金軍と死ぬまで戦ったことから、「中国史上最大の英雄」と称賛されています。

 

さて、岳飛の死後の南宋の政治状況はあまり知られていません。

そこで今回は岳飛死後から隆興元年(1163年)の第3次宋金和議までを解説致します。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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専権宰相 秦檜

秦檜(しんかい)

 

紹興11年(1141年)に岳飛が獄死し、金との和議は締結しました。これを第2次宋金和議と言われています。その後、秦檜は実質的な権力者となりました。

 

秦檜は外戚との連携、密告奨励、言論弾圧、一族の科挙の裏口入学など多くの恐怖政治を行いました。この手法は秦檜が亡くなる紹興25年(1155年)まで続きました。秦檜は南宋政治を1人で操っていたことから、南宋の〝専権宰相〟の1人に数えられています。

 

 

 

金の南下

「金」の国旗をバックとした兵士

 

秦檜の死後、政治の実権を握ったのは沈該(しんがい)湯思退(とうしたい)でした。2人は秦檜の政策である金との関係を維持しました。

 

ところがこの2人は所詮、秦檜ジュニアです。実力は秦檜より相当劣ります。また、反・秦檜系の官僚も力を付けてきました。紹興29年(1159年)に沈該が、30年(1160年)には湯思退が罷免されました。

 

そして、金でも第4代皇帝海陵(かいりょうおう)が南宋征服のために南下しました。

「皇帝なのに王?」と思った人もいるかもしれないので少し説明します。

 

海陵王は暴君として有名であり、金の歴史では皇帝として認められていません。だから、王に格下げされているのです。

 

それでは話を戻します。

 

 

采石礫の戦いと海陵王の運命

 

紹興31年(1161年)に海陵王は南下しましたが、南宋に敗北しました。敗れた海陵王は軍中で反乱にあい、あっさりと殺されました。

これを「采石礫(さいせきき)の戦い」と言います。

 

 

孝宗の即位と張浚の起用

 

紹興32年(1162年)に南宋初代皇帝高宗(こうそう)は、引退して自分の養子に皇帝位を譲りました。これが名君として有名な南宋第2代皇帝孝宗(こうそう)です。孝宗は采石礫の戦いに乗じて、金を滅ぼす気でいました。

 

早速、張浚(ちょうしゅん)を朝廷に呼び寄せました。

 

張浚と言っても、岳飛を罪に落とした張俊(ちょうしゅん)ではありません。

名前がよく似た別人です。

 

「そんな名前区別出来るか!」と叫びたくなるかもしれませんが、実際にいた人物なので仕方ありません。張浚は岳飛と同時期に活躍した文官であり、主に四川方面の戦場を担当していました。

 

また、岳飛と同じ主戦派の人物です。主戦派の人物が来れば、みんなの勢いが増すと孝宗も考えたのでしょう。

しかし、当時の朝廷は張浚の再起用に良い顔をしません。

 

張浚の人物像

 

なぜなら、孝宗即位当初の朝廷の主だった人物は先代の高宗の部下です。彼らは秦檜の政治手法には反対ですが、戦争はやりたくなかったのです。

ましてや、孝宗が呼んだ張浚は先代の高宗が非常に嫌っていた人物でした。

 

それは張浚自身に問題があったそうです。朱子学の開祖の朱熹(しゅき)は張浚について、以下の評価をしています。

 

「張浚は能力に欠けている。大義は、至極明らかであるが、物事を何も分かっていない」

 

要するに口だけは達者で、実務能力に欠けているのです。実際に張浚は対金戦争で失敗したことがあります。そのためか、高宗は張浚の再起用の話が出るたびに「嫌だ!」と言って断っています。

 

敗北と第3次宋金和議

 

さて、朝廷に呼ばれた張浚は早速、親征を提案しました。

 

「おい、冗談だろ!」とみんなは大反対しました。だが、孝宗はやる気まんまんです。当時の宰相の史浩(しこう)が孝宗を説得しましたが、孝宗は無視して親征を決めました。

 

怒った史浩は宰相を辞任しました。ところが、符離(現在の安徽省宿州市)にいた南宋が、金の激しい抵抗にあって大敗しました。

 

これを「符離の戦い」と言います。

 

孝宗が敗報を知ったのは、親征の準備をした後でした。孝宗は赤っ恥をかいたのです。

 

結局、南宋は軍の立て直しが出来なくなったので、金と和議を結ぶことにしました。隆興元年(1163年)10月に第3次宋金和議が結ばれました。

 

宋代史ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

孝宗はその後、金との戦争をすることは無くなり統治に専念します。しかし、彼は科挙出身の宰相だけに政治を委ねずに、科挙出身者でない者にも政治をさせることを発案します。

 

だが、それはまた別の機会に話します。

 

※参考文献

・小林晃「南宋孝宗朝における太上皇帝の影響力と皇帝側近政治」(『東洋史研究』71-1 2012年)

・澤田久理子「張浚の評価について」(『東洋大学大学院紀要』42 2005年)

・寺地遵『南宋初期政治史研究』(渓水社 1988年)

・山内正博「武将対策の一環としてみたる張浚の富平出兵策」(『東洋史研究』19-1 1960年)

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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