これまでの記事において、山崎の戦いについて明智光秀にとって想定外のことが多かったから負けたという内容でした。
また、三日天下や天王山など現代でも使われる言葉の由来になっていることも紹介しました。
しかし、これまでの記事では山崎の戦いのゆかり地を紹介した記事がありませんでした。
今回は山崎の戦いのゆかり地を紹介します。
天王山の由来になった場所とは?
1582年6月2日の未明に本能寺の変が起こりました。
本能寺の変で織田信長が自害したことを知ると、豊臣秀吉は中国地方から京都へ引き返します。わずか2日間で引き返したことから中国大返しといいます。
6月13日に天王山の麓にある現在の小泉川を挟んで対峙し、山崎の戦いの火蓋が切って落とされました。天王山は標高270mの山で、天下分け目を意味する言葉の由来となりました。
天王山へはJR山崎駅と阪急大山崎駅から徒歩60分で行くことができます。ハイキングコースとして整備されています。途中に陶板絵図があるため合戦の臨場感を味わいながらハイキングを楽しむことができます。
明智光秀はどこに陣を置いた?
山崎の戦いで豊臣秀吉は天王山の麓に陣を置きました。一方で、明智光秀は同じ山崎にある御坊塚という場所に陣を置きました。
御坊塚とは古墳のことで、となりの長岡京市の恵解山古墳であるという説が有力になっています。
近年の古墳の発掘調査において、古墳から火縄銃の鉄砲玉や曲輪の跡などが発見されました。山崎の戦いで損傷したと考えられ、光秀がこの地に陣を置いたと考えられます。
勝竜寺城
勝竜寺城は長岡京市にあります。
勝竜寺城はかつて細川藤孝・忠興親子の居城でした。明智光秀の娘・玉が細川忠興に嫁いだとき、勝竜寺城で新婚生活を送ったといわれています。
山崎の戦いで明智光秀が敗れると、この城に籠城しました。籠城したものの、豊臣秀吉の攻撃に耐えることができず、光秀は勝竜寺城を脱出して坂本城に逃げようとしました。光秀は坂本城に逃げる途中で、農民に討たれました。
現在、勝竜寺城は城跡となり、勝竜寺城公園となっています。アクセスはJR長岡京駅から徒歩10分です。
宝積寺
山崎の戦いで、豊臣秀吉は宝積寺に陣を置きました。宝積寺は724年(奈良時代)に行基によって開山されました。打出と小槌を祀っていることから商売繁盛のお寺として知られています。
山崎の戦いの後、清洲会議で秀吉は山城国を手に入れました。山城国を手に入れた秀吉は山崎城を築城し、宝積寺は城の一部となりました。山崎城は大阪城が完成するまで秀吉の居城となりましたが、大阪城が完成すると山崎城を廃城としました。
幕末になると、宝積寺は1864年に起こった禁門の変で、尊皇攘夷派の真木保臣らが陣を置きました。現在、宝積寺は天王山のハイキングコースの一部となっています。アクセスは阪急大山崎駅とJR山崎駅から徒歩15分です。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は明智光秀と豊臣秀吉が直接対決をした山崎の戦いのゆかりの地を取り上げました。これまでの記事では、山崎の経過を中心に取り上げてきましたが、ゆかりの地を取り上げることはありませんでした。今後、2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』の放送に合わせて訪問したい場合、この記事を参考にしていただけると幸いです。
明智光秀は山崎の戦いに敗れ、勝竜寺城から逃れて坂本城に逃げる途中で、農民に討たれたと伝えられています。大河ドラマ『麒麟がくる』の最終回で、山崎の戦いで秀吉に負けた後の明智光秀についてどのような演出をするのか注目したいと思います。
また、大河ドラマの放送の決定に合わせて、明智光秀に関する新しい発見があるかもしれません。今後の研究にも注目したいと思います。
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