契丹は4世紀から14世紀にかけて満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧のモンゴル系の民族です。10~12世紀世紀前半に遼(916年~1125年)という王朝を建国しました。
一時期は北宋(960年~1127年)を圧倒するほどの驚異的な存在でした。しかし、北宋の第8代皇帝徽宗の宣和7年(1125年)に北宋と金(1115年~1234年)の連合軍により滅ぼされました。
ところで、契丹はどのような民族だったのでしょうか。今回は契丹民族と契丹の初代皇帝耶律阿保機について紹介致します。
記録を持たない民族である契丹
契丹は別名をキタイと言います。契丹は遼を建国するまで、独自の文字がありません。そのため、「記録」の習慣が無かったのです。自らの記録を持たない契丹については、中国やウイグルからの記録でないと詳細なことは分かりません。
中国やウイグルからの記録によると、4世紀の半ばには、すでに存在していたことが記されています。魏晋南北朝時代(220年~589年)には北魏(386年~534年)と朝貢関係を持っていました。
また、隋(589年~618年)・唐(618年~907年)が天下を統一すると、引き続き朝貢関係を保ちました。
唐に対して反乱を起こす契丹
しかし、いつまでも朝貢関係を保つほど、契丹は甘くありません。契丹は唐の過酷な税の徴収に我慢が出来なくなりました。万歳通天元年(696年)に、契丹は唐に対して大規模な反乱を起こしました。
だが、この当時の唐は制度も軍事力も強大なので、反乱はすぐに鎮圧されました。契丹は危うく、部族壊滅の危機でしたが辛うじて免れることが出来ました。それから約150年、唐とウイグルと朝貢関係を保ちながら契丹は部族の命脈を保つことに成功しました。
契丹、独立への道
ところが契丹の独立の道は早めにやって来ます。8世紀の半ばに唐は安禄山の率いる大規模な反乱軍の前に、国が分裂状態になります。また、ウイグルも9世紀の半ばに国が分裂状態になり瓦解しました。2つの事件を契機に、契丹は独立の道のりを歩んでいきます。
耶律阿保機の登場
10世紀早々、契丹の部族長に耶律姓のチューリという人物が現れました。
彼こそが、遼の初代皇帝太祖=耶律阿保機です。チューリは彼の本名なのですが、世界史の教科書では耶律阿保機が有名です。
だから、この記事でも耶律阿保機で通します。けれども、耶律阿保機本人はこの名を使っていませんし、それどころか愛称でもありません。それでは阿保機の意味は何でしょうか。
正解は「略奪者」という意味です。つまり、阿保機は中国側からの蔑んだ呼称です。なぜこのような、あだ名が付いたのでしょうか。それはこんな理由があったからです。
無敵の略奪者 耶律阿保機
耶律阿保機は契丹族をまとめると〝天皇帝〟(テングリ=ハン)を自称しました。さらに、タングート族等の内外モンゴリアの遊牧民を平定していきました。また、満州のツングース国家〝渤海国〟を滅ぼしました。
中国に侵入すると平州(現在の河北省廬竜県)、遷州、(同臨楡県)、営州(同昌黎県)、景州(同遵化県)を奪取しました。これらの戦で牛馬・物資を数えきれないほど手に入れて、人々を連行していったようです。
だから、こんなあだ名が付いたのです。ただし、これは異民族の習慣です。勝った者は負けた者からものを奪ってよいことが当たり前なのです。
つまり、「お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」というジャ〇アン理論が、異民族では通用するのです。ひどいかもしれませんが、本当の話です。耶律阿保機はこのやり方で、遼の基盤を築き上げました。
宋代史ライター 晃の独り言
以上が、契丹民族と遼の太祖耶律阿保機についての解説でした。残念ながら、耶律阿保機は国号を決める前に亡くなったので、遼の建国を見れませんでした。国号が遼になるのは第2代皇帝太宗(たいそう)の時からです。
※参考
・愛宕松男「遼王朝の成立とその国家構造」(『岩波講座世界歴史9』 1970年)
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