毛利元就は、中国地方で名高い大名であり、その権謀術数で知られています。しかし、彼は、弱い者が犠牲になる戦国時代において珍しいフェミニストの一面も持っていました。
4歳で母を、10歳で父を失う
毛利元就は、1497年に安芸の国人領主である毛利広元と正室の福原氏との間に生まれました。しかし、彼が4歳の時に生母が病死し、10歳のときには父の広元も過度の飲酒が原因で亡くなりました。その頃、元就の兄である興元は上洛しており、本拠地にはおらず、重臣の井上元盛がこの機に乗じて、元就が住んでいた多治比猿掛城を奪いました。
父の継室、杉大方の無償の愛
孤児同然となった10歳の元就を救ったのは、彼の父広元の継室である杉大方でした。彼女は元就の苦境を不憫に感じ、まだ若かったにも関わらず、実家に帰ることも再婚することもなく、元就を引き取り女手一つで育てました。元就は、血の繋がりのない杉大方が自分を育てるために尽くしたことを深く感謝、尊敬し、以後、女性を尊重する戦国大名となります。
正室を一筋に愛し、娘を溺愛
例えば元就は、正室妙玖が亡くなるまで側室を持ちませんでした。これは正室以外にも側室、妾を置くのが普通だった戦国大名では珍しい事です。また、元就は妙玖の産んだ次女五龍局を溺愛しており、娘が宍戸隆家に嫁いだ後も、彼女の愚痴を聞いたり、家庭問題を仲裁したりする子煩悩な一面をもっていました。
遺言に女性への平等を訴える
晩年、元就は遺言の中で息子である吉川元春と小早川隆景に対し、妹の五龍局を軽んじず、平等に扱うように命じ約束を守らなければ恨むと書いています。毛利元就は女性を尊重し、妻を愛し、娘の将来を心配する女性への思いやりが深い人であり戦国時代のフェミニストと呼べるでしょう。
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