武田信玄といえば、ほとんど負けを知らない武田の騎馬軍団や甲斐の内政に尽力した人物として有名です。内政面でも戦いでも業績を挙げている武田信玄について謎の部分が残されています。
今回は武田信玄に関する謎について取り上げます。
武田信玄の肖像画の謎
武田信玄の肖像画について疑問点が上がっています。武田信玄とされてきた肖像画に対する疑問点として、出家しているのに後髪が残されていることが挙げられます。他に、肖像画の着物の家紋について、武田家の菱形ではないことも挙げられます。
肖像画については武田信玄ではないとすれば誰の肖像画でしょうか。
有力な説として畠山義続が挙げられます。畠山義続は能登国の戦国大名でした。一族の内紛を抑えられず、家臣のクーデターにより追放されました。大名として復帰することなく死亡します。。
武田信玄の軍師・山本勘助の謎
武田信玄が甲斐の1大名から信濃・上州・駿河を支配する大名になったことや第一次から第五次までの川中島の戦いで有名になりました。戦いで連戦連勝、一糸乱れぬ動きをする武田の騎馬軍団が歴史ファンの間で人気がある要因になっていますが、武田信玄の素晴らしい業績があるのは軍師・山本勘助のおかげだといわれています。
しかし、山本勘助については謎の部分が多いといわれています。山本勘助について史料で名前があるのは『甲陽軍艦』のみです。その他の史料では『市川文書』だけです。山本勘助が実在していないといわれていましたが、現在では実在していたという説が有力です。
山本勘助の生年については不詳ですが、1561年の第四次川中島戦いで討ち死にをしました。三河国の牛窪の生まれで、諸国を放浪していました。板垣信方の推挙により信玄の家臣となりました。信玄の家臣は独立心が強く、自分勝手な行動が目立ちました。
山本勘助は結束力を固めるために信濃侵略など戦をすることを提案し、信玄は実行します。信濃国の諏訪氏・信濃守護の小笠原氏を倒し、信濃守護になりました。勘助の死後も信玄は戦を重ね、上州・駿河も支配できるようになりました。
武田信玄の死に関する謎
武田信玄は1572年に三方ヶ原の戦いで徳川家康を破ると、破竹の勢いで遠江国と三河国の徳川家康の軍勢を破りました。しかし、野田城を落とした頃に信玄は病気で倒れました。武田軍は三河国から甲斐国へ引き揚げましたが、途中信濃国の伊那で死亡しました。死因は結核であるといわれています。
武田信玄の死について病死が有力ですが、暗殺説もあります。野田城攻めの際、外で村松芳休という笛の名手の音色に聞き入っていました。外で聞き入っていた信玄は何者かに狙撃されました。愛知県新城市の法性寺には「信玄が撃たれた場所」という看板があります。ただ、信玄が暗殺されたという説についてはフィクションのようです。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は武田信玄に関する謎について取り上げました。武田信玄に関する謎として最初に肖像画について触れました。武田信玄と伝えられる肖像画について、出家しているのに後髪が残っていることや着物の家紋が武田家の家紋である菱形でないことを疑問点として挙げました。肖像画については能登国の戦国大名・畠山義続であるという説を取り上げました。
次に、武田信玄の軍師だった山本勘助について取り上げました。山本勘助は諸国を浪人していた人物で、武田信玄の家臣になってから連戦連勝の武田の騎馬軍団を作り上げることに貢献しました。山本勘助の記録がある史料として『甲陽軍艦』しかないことから実在していたかどうか疑問視する意見があります。今後の山本勘助に関する研究に注目したいと思います。
終わりに、武田信玄の死に関する謎について取り上げました。病死が有力で、暗殺されたという説や愛知県新城市に信玄が暗殺されたと書かれた看板が残されていますが、暗殺についてはフィクションという説が有力であることを取り上げました。
これらの謎について、今後の研究で何か発見されることが期待されます。
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