この戦いで曹操は天下に王手をかけるまでになったと言われていますが、官渡の戦いの後には曹操軍がかつてないほど疲弊することになる
戦いが待っていました。
その戦いの名は白狼山の戦いです。
烏桓のもとへ逃れた袁尚
袁紹の死後、袁家では跡継ぎ争いが勃発します。
このお家騒動で袁家がますます衰えていき漁夫の利を得ることを狙っていた曹操でしたが、袁煕・袁尚が異民族・烏桓を頼って亡命してしまいます。
烏桓征伐をすべきか否か
「異民族を味方につけて袁家が再び盛り返して来たら…」
そんな不安が頭をよぎる曹操。
臣下たちに意見を問うと、
「烏桓が袁尚を利用することはあっても袁尚のために烏桓が出てくることはないでしょう。
むしろ今は劉備・劉表の動向に注意をはらうべきです。」
との答えが返ってきました。
曹操はこの意見を受け入れようとしたのですが、
群臣たちの意見に異を唱える者が一人。
郭嘉です。
郭嘉は
「烏桓は遼西という遠方の地にいることを良いことに何の防備もしていないでしょう。
今不意を突けば必ず平定できます。
むしろ今を置いて他に烏桓を征伐する好機はございません。
劉表に劉備を使いこなす器量はありませんから、
国を空にして北方遠征に向かっても問題ありません。」
と熱弁をふるいました。
郭嘉の力強い言葉に後押しされた曹操はついに烏桓征伐を決意したのでした。
長雨の中の行軍
いよいよ烏桓討伐に出ることになった曹操軍。
郭嘉は進軍するにあたり、兵は神速を貴ぶとして昼夜問わず進軍を続けることを献策しました。
曹操もこれを受け入れ、遥か遠くの遼西の地に猛スピードで進軍することを決意します。
ところが、あいにくその時の天候は悪く、長雨が続いていたことによって道がぬかるんでいたり烏桓によって街道が塞がれていたりしていたため
行軍を続けるには大変困難な状況でした。
しかし、雨で曹操軍が足止めされているはずだと思い込んでいる烏桓の虚を突くべく、
「雨で進軍できないから一時撤退する。秋冬まで進軍を取りやめる」
と書いた立札を作って烏桓を欺き、烏桓が油断しきっている間に曹操軍は間道を通って進軍を続けたのでした。
雨の中での七百里以上の行軍は曹操軍にとって大変過酷なものだったはずです。
白狼山で激突
曹操が大凌河の渓谷まで軍を進めた頃、烏桓はようやく曹操軍が足元にまで迫ってきていることに気づいて大慌て。
烏桓も急ごしらえの軍で出撃し、両者はついに白狼山で激突しました。
しかし、心の準備ができていなかった烏桓の軍勢は及び腰で、曹操軍によってあっという間に壊滅させられてしまったのでした。
ちなみに、袁尚・袁煕は命からがら遼東太守のもとへ逃れていきました。
黄河以北を統一したものの…
袁尚・袁煕を追うべきかと考えた曹操陣営でしたが、郭嘉は遼東太守がそのうち袁尚・袁煕の首を差し出してくると考えて
撤退することを進言しました。
曹操は郭嘉の進言を受け入れ、引き返すことにします。
帰還を開始した頃、郭嘉の言葉通りに袁尚・袁煕の首が送られてきて袁家は滅亡。
さらに烏桓も曹操に完全服従し、重要な兵力の供給源となることに。
しかし、夏の雨の行軍も辛かったのですが、冬の乾期の行軍も思いの外辛いもので、曹操軍は水や食料の不足に悩まされました。
地獄のような行軍が終わった後、曹操は烏桓征伐を反対した者を呼び出し、
「天が我々に味方してくれたおかげでなんとか危機を乗り越えられたが、得たものは少なく大変危険な行軍であった。
諸君の諫言は万全の計略であった。今後も渋ることなく諫言をしてくれ。」
と言って恩賞を取らせました。
一方、
烏桓征伐を決意させた郭嘉は厳しい行軍の末に風土病にかかって若くして亡くなってしまいます。
曹操は若すぎる天才の死をそれはそれは悲しんだと言います。
三国志ライターchopsticksの独り言
白狼山の戦いでの勝利によって華北統一を果たした曹操ですが、地獄のような行軍を体験し、もうこりごりと思ったに違いありません。
しかし、郭嘉の進言通りに烏桓を叩いておかなければ烏桓や袁家は後顧の憂いとなったことでしょう。
北の脅威を先に取り除いておいたことは後に劉備や孫権と争うことを考えれば間違いなく必要なことだったと思います。
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