現在、日本と中国との間で文化の違いを感じることはあっても文明の違いを感じることは無いでしょう。
日本でも中国でも皆スマホをいじりながら電車に乗っているし、インターネットを通して様々な物を気軽に購入することができます。
しかし、はるか昔日本と中国には大きな文明の差がありました。中国で人々が文字を木簡に刻んでいた頃日本の人々は一生懸命縄をよりよりしていたみたいな感じです。正直、未来人と原始人が場所こそ違えど同じ時代に存在していたようなものだったのです。そんな中国と日本ですが、漢代にはどれほどの差が開いていたのでしょうか?
今回は漢代の中国と日本の文明の差について徹底分析していきたいと思います。
この記事の目次
漢が400年の歴史を刻んでいる間、日本はずっと弥生時代
漢王朝は勉学に励む若者たちにとってありがたいことに西暦1年を軸としてその前の約200年が前漢代、その後の約200年が後漢代となっています。とても覚えやすいですよね。
このように400年もの歴史を誇る漢王朝では様々な制度や刑罰が整備され、儒教の経典研究や『史記』などの歴史書の編纂に代表されるあらゆる文化が育まれ、更には医学・天文学などの自然科学分野も発展していきました。
一方、日本はどうだったかといえば弥生時代真っ只中。紀元前10世紀頃から紀元後3世紀までが弥生時代に区分されていますから、漢王朝が成立してから滅ぶまでずーっと弥生時代でした。
弥生時代といえば稲作が盛んに行われるようになり、弥生土器がつくられたり高床式倉庫がつくられたりした時代。人々が学問に励んだり文学を嗜んだりするなんて夢のまた夢…。
弥生時代といっても5期に分かれてるもん!
漢代の中国と日本のあまりの文明の差に愕然としてしまう人は多いと思いますが、そう肩を落とすことはありません。弥生時代といっても人々がずっと原始人にちょっぴり毛が生えたような生活をしていたわけではありません。1300年もの時間があったわけですからやはり日本の人々の文明も少しずつ発展していっていたようです。
実は弥生時代は年代によって早期・前期・中期・後期・終末の5つに区分されています。この区分によれば前漢代の日本は弥生中期、後漢代は弥生後期であったようです、
弥生時代には国だってたくさんあったんだぜ
東西南北に長い日本列島では弥生時代を迎えるのにも地域によってタイムラグが発生していて九州北部では紀元前10世紀頃から弥生文化が起こったのに対し関東西部では紀元前3世紀頃にようやく弥生文化が起こったとされています。
そんな日本列島ですが、前漢時代に対応する弥生中期を迎えた頃にはどの地域でも同じようなことが勃発していたようです。同じようなことというのは「戦争」。西日本を中心に弥生中期のものであると考えられるあちこちに傷のある人骨がたくさん発見されています。また、石で作られた剣や戈の他にも銅で作られた剣や戈が大量に発掘されているのです。このことから、弥生中期にはあちこちで多くの戦争が起こっていたことが窺えます。
弥生時代の人といえばのほほんと農耕に励んでいたイメージが強いですが思いの外バイオレンスだったようです。そしてもう1つおさえておきたいことが。戦争が起こっていたということは既に国らしいものが複数できていたということが推察されます。
おそらく大きさでいえば今の村や町くらいのものだったと思われますが、弥生時代には既に国のような共同体ができあがっていたのでしょう。
奴国なんて光武帝から金印も授かってるんだからね!
弥生時代に国のようなものがあったであろうことは「漢委奴国王」と刻まれた金印が福岡で見つかったことからも裏付けられます。
『後漢書』にも光武帝に奴国の使者が朝貢し、印綬を授けられたとの記録が残っています。おそらく奴国の王らしき人が周辺諸国に自分の力を示すためにわざわざ漢の光武帝に使者を送ったのでしょう。
弥生時代には当然大陸からの渡来人が日本に訪れていたはずですから日本に住んでいた人々もそれなりに大陸の情勢などを弁えていたのでしょうね。
三国志ライターchopsticksの独り言
中国で漢王朝が栄えていた頃、日本ではずっと弥生時代で人々は停滞した文明の中でのんびり過ごしていたと思われがちですが、国がつくられたり戦争をしたりと少しずつ歩みを進めていたようです。漢代以外にも中国と日本の歩みを丁寧に比較すればまた新しい視点を得られるかもしれませんね。
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