今回は明治天皇について取り上げます。明治天皇は16歳の若さで天皇に即位しましたが、世界で評価される天皇になりました。世界で評価される天皇になれたのは教育係としての西郷隆盛がいたからだといわれています。『西郷隆盛が明治天皇に与えた影響は?』によれば、明治天皇は即位した頃はわがままで有名でしたが、西郷が教育係となり、君主しての自覚を持つようになりました。
この記事では明治天皇の生涯を次の3つに分けます。天皇に即位するまで、天皇に即位後から西南戦争まで、西南戦争後から近代国家確立までの3つに分けて紹介します。
明治天皇、天皇に即位するまで
明治天皇は1852年に孝明天皇の第二皇子として生まれました。親王宣下を受け、睦仁親王と名乗りました。1867年、孝明天皇が急死しました。孝明天皇の崩御に伴い、元服をしないで践祚の儀を行い、16歳の若さで天皇に即位しました。
天皇に即位してから西南戦争まで
明治天皇が即位するとすぐに薩摩藩や一部の公卿を中心に討幕運動が活発になり、討幕の密勅が岩倉具視や薩長に出されました。討幕の密勅が出されたことを知ると、徳川慶喜は土佐の山内容堂や後藤象二郎の建白を受け、討幕の密勅の大義名分をなくすために大政奉還しました
徳川慶喜の大政奉還により薩長は形勢不利な立場となりました。『【形勢不利の薩長】一発逆転の王政復古大号令の影響力とは?』では薩長が旧幕府軍を倒幕するまでの経過を取り上げています。徳川慶喜は政権を朝廷に返上したものの政府内に引き続き留まっていました。薩長は1867年12月に王政復古の大号令を発表し、天皇中心の政権という原点に返ることが決まりました。この大号令の後に小御所会議が開かれ、薩長はクーデターを決行しました。結果、徳川慶喜の内大臣の辞任と領地の一部返上が決まり、戊辰戦争へとつながりました。
1868年1月の鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争は始まりますが、同年4月に公議世論や開国和親など今後の政治を神に誓う形で宣言しました。このことを五箇条の御誓文といいます。同時に明治と改めて一世一元の制を定めました。江戸を東京都改め、以降東京の皇居で過ごしました。
1873年、明治六年の政変で西郷隆盛ら征韓論者が政府を去りました。その後、不平士族の反乱が起こり、1877年に西郷隆盛が不平士族の陣頭に立って西南戦争を起こしましたが、戦いに敗れて自害しました。明治天皇は涙を流していたという記録が残されています。西南戦争で怪我をした政府軍の兵士を晩餐会に呼んで慰めたことから、明治天皇の気遣う人柄が表われています。
西南戦争後から近代国家確立まで
不平士族の反乱が西南戦争で収束すると、言論による運動が活発になりました。この言論による運動のことを自由民権運動といいます。1881年、自由民権運動を受けて、明治天皇は国会開設の勅諭を出し、10年後に国会を開設することを約束しました。1889年2月11日に大日本帝国憲法を公布しました。この憲法の公布によって、日本は近代国家として欧米列強と肩を並べることになりました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は明治天皇について取り上げました。ここでは、最初に明治天皇とあんぱんについて取り上げます。4月4日はあんぱんの日で、木村屋があんぱんを明治天皇に献上した日といわれています。明治天皇はあんぱんを気に入り、毎年献上されることになりました。
次に明治天皇の写真について取り上げます。明治天皇の写真についてすり替えられたという説が浮上しています。根拠として、即位前は細身でしたが、即位後はヒゲを生やして体重が増えて恰幅がいいという違いが見られます。1929年にこのすり替え説が浮上していたといわれ、今後の研究が気になります。
明治天皇の人柄について取り上げます。明治天皇の写真を見ると貫禄がある人という印象を受けますが、意外なことに周囲の女性をあだ名で呼ぶなど意外な一面もありました。明治天皇は1912年7月30日に崩御しました。明治天皇の崩御は世界各国のニュースで取り上げられ、明治天皇が世界中で評価されていたことを知ることができます。
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