坂本龍馬が暗殺された事件について、これまでに様々な人物が坂本龍馬を殺した犯人として注目されています。今回は坂本龍馬を殺した犯人として西郷隆盛に注目します。西郷隆盛の説について、西郷と坂本龍馬の出会いから薩長同盟を経て暗殺に至るまでの経緯について紹介します。
西郷隆盛と坂本龍馬の出会い
西郷隆盛
西郷隆盛と坂本龍馬が最初に会ったのは1864年8月中旬頃であると考えられています。当時、坂本龍馬は土佐藩を脱藩し、勝海舟が塾長の海軍操練所の生徒でした。坂本龍馬は初めて西郷と会った時の感想を次のように語っています。
「西郷というやつは、わからぬやつでした。釣り鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。もし、バカなら大きなバカで、利口なら大きな利口だろうと思います。ただ、その鐘をつく撞木が小さかったのが残念でした」
西郷を「釣り鐘」に、龍馬自身を「撞木」にそれぞれ例えています。龍馬の感想に対して、勝海舟は「評される人も評される人。評する人も評する人」と評価しています。
坂本龍馬を介して薩長同盟へ
『西郷隆盛と木戸孝允はどんな関係?』では、禁門の変で薩摩藩と長州藩は互いに敵で会ったため対立関係にありました。長州藩は朝敵となり、第一次長州征伐の勅命が出ましたが、西郷隆盛が単独で長州藩に乗り込んで交渉したことによって、長州藩は幕府に対して恭順の態度を示し、戦争に至りませんでした。
第一次長州征伐後、薩摩藩内で幕府に対して強硬な態度を示すべきだと主張する人がいました。強硬論が出始めたとき、土佐藩を脱藩した坂本龍馬から桂小五郎に会ってみないかと打診されます。これが西郷と桂の最初の出会いだと言われています。最初、西郷と桂があったとき、禁門の変のわだかまりがあり、交渉がうまくいきませんでしたが、坂本龍馬が仲立ちをしたことによって薩長同盟が成立しました。
坂本龍馬暗殺の謎 西郷隆盛が暗殺したって本当?
西郷隆盛が坂本龍馬を暗殺した経緯と動機について取り上げます。1866年に西郷はなぜか『亀山社中』への援助を打ち切ります。坂本龍馬が最初に襲われたのは薩長同盟(1868年)が成立した日の2日後です。寺田屋で京都見廻り組に襲われた「寺田屋事件」が起こります。龍馬は寺田屋事件が発生してから薩摩屋敷に逃げました。その後、薩摩で手傷の治療をしました。第二次征長戦に「亀山社中」の海兵隊を引き連れて、ユニオン号に乗って小倉で参戦しました。
ユニオン号を長州に引き渡した後、亀山社中には運行する船がなくなり、薩摩は亀山社中への援助を打ち切りました。薩摩藩にとって亀山社中への支援は相当な負担になっていたのかもしれません。薩長同盟成立後、西郷にとって龍馬を利用する価値がなくなったと考えられます。西郷隆盛と坂本龍馬の政治思想の違いから暗殺につながった経緯について取り上げます。坂本龍馬の政治思想の特徴として、日本国のトップを空白にしているのが挙げられます。一方で、西郷隆盛は天皇中心の新政府を目指し、徳川慶喜を排除しようとしました。
実際に大政奉還後に坂本龍馬が暗殺されてから、西郷隆盛ら新政府軍は王政復古の大号令を宣言して、天皇中心の新政府を樹立しました。西郷にとって龍馬は天皇中心の新政府の樹立の障害になり、暗殺につながった可能性があります。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は坂本龍馬を暗殺した犯人として西郷隆盛に注目しました。龍馬を暗殺する動機として、新しい政治制度で徳川の勢力が残ることを警戒したことは有力な説ではないかと考えられます。他に、坂本龍馬を暗殺真犯人については京都を警備していた見廻り組か新撰組が有力であると考えられます。当時、見廻り組だった今井信郎や渡辺篤が龍馬を襲ったと証言していて有力ではないかと考えられていますが、矛盾する点があるようで確定に至っていません。今後の研究に注目したいと思います。
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