坂本龍馬の愛刀陸奥守吉行はどんな刀?

2018年5月6日


 

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坂本龍馬

 

暗殺でその生涯を終えた坂本龍馬(さかもとりょうま)は、最後の最後で愛刀で暗殺者に立ち向かいました。

しかし、額を横殴りに斬られ、愛刀である「陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)」を手にしようとして背中を切られます。

坂本龍馬は陸奥守吉行を手にして、頭への一撃を防ごうとしました。

しかし、血のせいか滑ってしまい、致命傷となる一撃を脳天に受けます。

 

坂本龍馬は暗殺され、その手に握られていたのは「陸奥守吉行」でした。

そして、坂本龍馬には最期のときに手にした愛刀

「陸奥守吉行」の他に何本もの刀を持っていたことが分かりました。

 

坂本龍馬は、刀マニアだったのかもしれません。

今回は坂本龍馬の愛した「陸奥守吉行」とその他の刀について調べてみました。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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坂本龍馬とはどんな人?

坂本龍馬

 

日本史の中でも屈指の有名人で「歴史上の尊敬する人」アンケートを取れば上位の常連。

坂本龍馬とは、そんな人物というイメージですね。

土佐藩出身で、幕末に活躍した英傑のひとりであることは間違いありません。

 

通説で言われていた薩長同盟成立、大政奉還発案などは、史実と違うことが分かってきています。

多くの人たちのいい抱く坂本龍馬のイメージは司馬遼太郎(しばりょうたろう)

「竜馬がゆく」の影響と、それに続く数々のフィクションの影響が大きいでしょう。

 

それでも、坂本龍馬は、幕末において海援隊を組織し、

経済的な面で非常に先進的な考えを持ち、行動をしていたことは事実です。

坂本龍馬は、最近では経済人的な側面から優れた人物であると評価されることが多くなっています。

 

【龍馬の愛刀】陸奥守吉行とはどんな刀?

 

龍馬の愛刀だった「陸奥守吉行」は刀匠、吉行(よしゆき)によって鍛刀されたものです。

吉行は、江戸時代、元禄年間を中心に活躍した刀匠です。

 

彼は自作の刀に「陸奥守吉行」、「吉行」かの銘を刻みました。

大坂で修行し、坂本龍馬の故郷である土佐に招かれ鍛治奉行となり、刀の生産を続けます。

「陸奥守吉行」の銘の日本刀は、丁字刃(ちょうじば)のデザインに優れ、直刃(すぐは)涛欄刃(とうらんば)などもあったようです。

 

日本刀は実戦で使用されるより、工芸品としての価値が高いものでした。

その中で「陸奥守吉行」は切れ味も優れており、土佐の刀では最も優秀なものとされていました。

坂本龍馬は、先祖伝来の「陸奥守吉行」を兄に頼んで譲り受け、非常に大切にしていました。

 

現在でも愛刀「 陸奥守吉行 」を褒められたことを喜ぶ手紙が史料として残っています。

坂本龍馬が最期のとき掴んだ「陸奥守吉行」とはそのような刀です。

 

ガンバレ徳川

 

え?龍馬は刀剣マニア集めた刀は数十本!

坂本龍馬

 

坂本龍馬の身分は土佐藩の下士という、侍としては身分の低いものでした。

しかし、実家は才谷屋の屋号を持つ豪商です。

いってみれば、坂本龍馬は金持ちのボンボンだったわけですね。

 

そして刀マニア、コレクターというような一面があり、十数本の刀を所有していたといわれています。

坂本龍馬、実家が裕福であったことや、海援隊を率いて経済的にも成功していました。

だから、高価な刀を何十本も集めることができたのでしょう。

 

陸奥守吉行を龍馬が手に入れた理由は?

徳川慶喜の大政奉還

 

坂本龍馬が最期に手にしていた愛刀「陸奥守吉行」は坂本家の家宝でした

坂本龍馬は、大政奉還の動きを幕臣から聞かされます。

そして、土佐に戻り後藤象二郎(ごとうしょうじろう)に伝え、それが前土佐藩主の山内容堂(やまうちようどう)に伝わり、

江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜(とくがわよしのぶ)に建白することになります。

池田屋事件

 

巷間伝わっているように、大政奉還は坂本龍馬が発案したものではありませんが、

その大きな歴史の動きに関わっていたのは事実です。

 

そして、その歴史の動きの中で龍馬は、

兄の権平(ごんぺい)に手紙を出し、坂本家の家宝を送って欲しいと伝えます。

大政奉還は江戸幕府が終わることを意味し、それによって歴史は大きく動きます。

 

そのことに少なからず関わっている坂本龍馬もある種の覚悟、決意をもっていたのでしょう。

そして、龍馬は暗殺されたときに手にする愛刀「陸奥守吉行」を持つことになったのです。

   

坂本龍馬の壮絶な最期と陸奥守吉行

 

1867年11月に坂本龍馬は暗殺に斃れます。

京都の醤油商を営む近江屋新助方の母屋野の二階が坂本龍馬の暗殺の場となります。

 

坂本龍馬は真正面からいきなり、額を横殴りに斬られます。

この一撃に対し、龍馬があまりにも無警戒であったことから

暗殺犯に対する様々な説が生まれていきます

 

そして、龍馬は額の一撃を食らったあと、床の間にあった「陸奥守吉行」に手を伸ばします。

そのため、敵に背を向ける形となり、背中に斬激を受けます。右肩から背中に深手を負います。

この後、龍馬は「陸奥守吉行」を手にしますが、鞘から抜く暇もありません。

そのまま、敵の三度目の攻撃を受けます。

 

坂本龍馬は鞘に入った「陸奥守吉行」でその一撃を受けますが、刀が滑り龍馬の頭を叩き斬ります。

この三回目の頭への一撃が致命傷となり、龍馬は命を落とします。

頭の傷からは脳漿(のうしょう)が飛び散るほどであったといいます。

そして、龍馬が最期のときに持っていた刀が「陸奥守吉行」だったのです。

 

ついにホンモノと認められた陸奥守吉行

坂本龍馬

 

坂本龍馬の暗殺後、時代は明治となり、坂本家は北海道に移り住みます。

そして、坂本龍馬の遺品を管理していました。

 

その坂本家から、大正後期から昭和の初めに撮影されたと思われる床の間の刀掛に、

横に並べてある3本の写真が見つかったのです。

その3本の刀について、高知県立坂本龍馬記念館が調査を開始したところ、

撮影されている刀の一本は、坂本龍馬の愛刀「陸奥守吉行」であることが分かったのです。

一番上に飾られいる刀です。

 

「陸奥守吉行」は戦災で焼けて変形してしまったため、

坂本龍馬本人のモノか分からないとして、史料的な価値が低いと見られていました。

しかし、坂本家から見つかった写真がその「陸奥守吉行」が

本物であるという証拠を裏づけすることになったのです。

 

そして、真ん中にある二本目の刀も、

三本目の脇差も龍馬の所有の刀であることが分かったのです。

二本目の刀は長年、別人のモノと思われていた刀でした。

三本目の脇差は龍馬が幼い頃に、親から「守り刀」として貰ったものであろうと推測されています。

 

幕末ライター夜食の独り言

 

坂本龍馬といえば自分の身を守るためにピストルで武装しており、

実際に幕府の役人を撃っています。

 

北辰一刀流の達人という伝承もありますが、

その剣の腕に関しては諸説あり、なんともいえません。

 

ただ、坂本龍馬が最期に手にしたのが、武士の魂ともされる刀でした。

愛刀「 陸奥守吉行 」です。

幕末時代の活動では、経済的な、商業的な功績の方が目立つ坂本龍馬ですが、

その魂の根本部分ではやはり侍であったのかもしれません。

 

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