隠れキリシタンとは、江戸時代に徳川幕府によって禁教になったキリスト教を密かに信じ続けた人々として知られています。私達も教科書において、踏み絵や火あぶりの残忍な処刑方法や、キリスト教徒の一揆である島原の乱や天草四郎、最近では「沈黙」という映画で信仰を守る過酷さと厳しさ、崇高な意志を見た事でしょう。
しかし、隠れキリシタンが江戸時代をどのように生き延びて、現在どうしているかはよく知らないのではないでしょうか?実は、戦国時代に入って来たキリスト教信仰は江戸時代を通じて変容しながら現在でも生き残っているのです。
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キリスト教はフランシスコ・ザビエルによって布教された
キリスト教(カトリック)は、1549年にフランシス・コザビエルが来日してより徐々に普及していきました。戦国大名は、キリスト教の教義以上に、珍しい西洋の文物や新兵器鉄砲の威力に大きな魅力を感じ、九州の大友宗麟や織田信長のように宣教師を保護して、領内で布教を許すなどした事で布教も軌道に乗ったのです。
しかし、キリスト教が最初は宣教師、次に商人、最後に軍隊が乗り込んでいく侵略の尖兵と化している事が分かってくると、豊臣秀吉はキリスト教を警戒、1614年には、徳川家康により本格的な禁教令が出て、100万を数えたキリスト教徒は弾圧されるようになります。1637年にはキリスト教徒の一揆島原の乱が発生、激しい抵抗を示した為に、幕府のキリスト教弾圧はより激しくなり、キリスト教徒は信仰を捨てたと偽り潜伏キリシタンとなって細々と信仰を続ける事を余儀なくされます。
それでも弾圧の激しさと血も凍るような拷問に耐えかね信仰を捨てる人々は後を絶たず次第にキリシタン人口は減少していきます。それでも熊本の天草地方や長崎ではキリスト教が深く普及していた事もあり1644年以降、日本には一人の司祭もいない状況でありながら、250年という長い間、キリスト教信仰が守られたのです。
潜伏キリシタンの信仰とは
司祭がいなくなってしまった為に、潜伏キリシタンの間では、独特の信仰が発展する事になりました。地域によって違いはありますが、潜伏キリシタンは小さな集落単位で秘密組織をつくりラテン語の祈祷文オラショを唱えて祈りを捧げ、慈母観音像を聖母マリアに見立てたり聖像、聖画やメダイ、ロザリオ、クルス等の聖具を秘蔵して納戸神として祀りキリスト教伝来時に習ったやりかたで、生まれた子供に洗礼を授けるなどしていました。
200年以上に及んだ鎖国で、日本にキリスト教を伝えた西洋諸国は、すっかり、日本のキリスト教徒の事を忘れ、再び幕末に日本に布教にやってきます。1865年、長崎の大浦天主堂の司祭を、浦上在住の潜伏キリシタンが訪ねます。これにより、250年以上もひっそりと信仰を守ってきた隠れキリシタンの存在が世界に知られる事になるのです。
ベルナール・プティジャンと潜伏キリシタンの邂逅
(画像:ベルナール・プディジャンWikipedia)
1865年、長崎の居留フランス人の為に建てられた大浦天主堂の司祭、ベルナール・プティジャンは、日本人にも教会を解放して見せていました。その理由は、はるかな昔、日本にもたらされたキリスト教の教えを守る人々がやってくるのではないかという期待からでした。
1865年の太陽暦3月17日の午後、プティジャンが庭の手入れをしていると15人ほどの男女が教会の扉の開け方が分からず難儀をしていました。プティジャンが扉を開いて中に招き入れると、一行は内部を見て回っていましたがその一行の中の杉本ゆりと名乗る中年の女性が「ワレラノムネアナタノムネトオナジ、サンタマリアの御像はどこ?」とささやきました。
その15人こそ、幕府の厳しい禁教をくぐりぬけ、200年以上も信仰を守り続けた潜伏キリシタンの子孫だったのです。プティジャンは歓喜して、この一部始終を欧州に書き送り、大ニュースになります。それからは続々と、潜伏キリシタンが大浦天主堂を訪れるようになりました。
ところが、やってきた潜伏キリシタンには、悲劇が待っていました。当時の幕府は西洋人がキリスト教を信仰する事は渋々認めていましたが、日本人には認めていなかったのです。信仰を表明したキリシタンは幕府の役人に捕えられ、拷問や投獄で棄教を迫られ島流しにされてしまいます、この事件を浦上四番崩れと言います。
なんと明治6年まで続いたキリシタンへの迫害
私達は何となく明治に入れば、キリスト教禁令も解かれたのではないかと漠然と思っていますが、それはことキリスト教に限っては間違いです。200年以上も禁教だったキリスト教は、日本人の中に深く根を下ろし、邪教であるという偏見は拭い難いほどに強くなっていました。浦上四番崩れで捕縛された信徒は、3394人、事件を聞いたプロイセン公使やフランス領事、ポルトガル公使やアメリカ公使は幕府に抗議します。
1867年の太陽暦9月21日には、フランス公使のレオン・ロッシュと、将軍徳川慶喜が大阪城で会見して釈放を求めますがこの会見では信徒の釈放は行われませんでした。やがて王政復古の大号令が出て、徳川幕府が崩壊しますが、明治政府は五榜の掲示の第三条で引き続きキリスト教禁止を決定それを受けて、井上馨と澤宣嘉が信徒に対してキリスト教の棄教を勧めますが彼らは拒否します。
二人は「中心人物の処刑と一般信徒の流罪」という厳罰を提案、しかし、引き続き諸外国からは、人道問題として激しい抗議が続きました。当時の外交担当の小松帯刀は「抗議を考慮して死罪は回避して流罪」を主張しその提案が決定。これを受けて、各国の公使はさらに猛抗議、ここでも英国公使パークスと大隈重信の間で6時間に及ぶ議論が続きました。6月7日、太政官達が発せられ、諸外国の猛抗議を無視し信徒の流罪が決定、木戸孝允が長崎を訪れて、処分を協議し信徒の中心人物1114人を津和野、萩、福山へ移送する事を決定します。
開明派で議会制民主主義を理解していたと言われる木戸孝允でさえ、キリスト教を邪教と見做す点は幕府時代と変わらなかったのです。以後、1870年まで続々と信徒達は捕縛されて流罪に処されます。
幕府時代を上回る凄まじい拷問
流罪になったキリシタン達は、信仰を捨てさせる為に激しい拷問に晒されます。それは、水責め、雪責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前で子供を拷問するなど、陰惨かつ残虐なもので幕府時代を上回ると言われました。これに対して西洋諸国の公使は逐一、報告を本国に書き送り日本に対して、圧力をかけるように要請します。
1871年に出発した岩倉使節団は訪問した各地で、ユリシーズ・グラントアメリカ大統領、イギリス女王ヴィクトリア、デンマーク王、クリスチャン9世等にキリスト教禁令を非難されます。さらに「禁教を解除しない限り、条約改正はあり得ないと思え」と断言されこれには、不平等条約改正を標榜する明治政府も困惑し、真剣にキリスト教禁令破棄を考える人々が出始めますが、同時に「人の国の宗教に口を挟むのは内政干渉だ」と反発する人々も出現紆余曲折ありながら、1873年2月24日、五榜の掲示を完全に撤廃します。しかし、それまでに拷問などにより3394人の信徒から662人が犠牲になったのです。
今でもカクレキリシタンが存在する理由
明治6年以後、隠れキリシタンは晴れて信仰の自由をえていきます。しかし、だからと言って、隠れキリシタンが消滅する事はありませんでした。それは、250年以上という余りにも長い隔絶により、キリシタンの教義が変化して本来のカトリックの教義とは別のものになってしまったからです。例えば、キリスト教の教えの核である知恵の実を食べて楽園を追放されたアダムとイブの話は、隠れキリシタンの教義では、後に神に謝って許してもらったと改変されています。すでに拭えない原罪という概念が失われていてしまったのです。
そのような事から、本来のキリスト教に信徒が馴染めなかったり、逆に土着化した信仰を捨てるように教会に促された事で、キリスト教から距離を置いて先祖から受け継いだ変容したキリスト教をそのまま守りつづける信徒も出現しました。
このような人々はカクレキリシタンと片仮名表記で呼ばれ、大正から昭和30年頃までは、2~3万人のカクレキリシタンがいたようですが信教の自由が認められている現在では、外からの抑圧がない為に信仰を守るという動機が希薄になり、信徒数は大きく減少しているようです。
幕末ライターkawausoの独り言
文明開化という言葉で、信仰も自由になったんだろうと思い込みがちな明治時代しかし、キリスト教は長年の擦り込みによって偏見が強固で依然として邪教扱いでした。もし、諸外国の執拗で長期間の抗議が無ければ、もっと長い間、キリスト教は禁止だったでしょう。理不尽な明治政府の弾圧に耐えた天草や長崎の隠れキリシタンの信仰の力の偉大さを感じずにはいられません。
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