今回は宗教のお話です……と言っても、堅苦しい説法をしようと言うのではありません。三国時代の宗教について、少しばかりお話させて頂きたいと思います。
さて三国時代の宗教と言えば二大宗教とも言えるような太平道、五斗米道という道教がございますが、三国時代の宗教と言えば基本的に儒教が主でした。しかし実は仏教もごく僅かながら存在していたのです。そこについてもお話していきましょうね。
この記事の目次
三国志の始まりの宗教、大平道で教祖の張角
まずは大平道についてお話しましょう。大平道は張角を教祖として興った宗教であり、道教の一派となります。
教団としては病人の治癒が主だった活動であったようで、張角はまず病人に自らの罪を悔い改めさせるように諭します。そして符を浸した水を飲ませ、呪術によってその病を治癒したとされています……この時、どれだけ良くなるかは「病人の信仰心」によるものとされるので、やや現代の私たちから見ると眉唾のように感じるかもしれません。
ともあれ、この大平道は三国志の時代の幕開けの宗教と言っても良いでしょう。後漢末期、天災が頻発したことなどで大平道に救いを求める人々は多く、十数年の間に大平道は数十万もの信徒を得ました。
これにより「蒼天既死」……黄巾の乱が起こり、群雄割拠、乱世の時代が広まっていきます。
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五斗米道三代目教祖、漢中の張魯
五斗米道は通説によると、大平道より少し遅れて広まったとされる道教で、張陵と呼ばれる人物が成都付近で起こした道教教団です。
二代目は張衡、そして三代目は三国志でも名前が知れた張魯が教祖となっています。五斗米道とは少し変わった名前に思えますが、これは信者に五斗の米を寄進させていたことによって由来された名前です。
張魯は張陵の孫に当たる人物とされていますが、この祖父を「天師」と崇めたことから後に五斗米道は「天師道」という名になりました。こちらも大平道と同じく、呪術を用いた儀式で病気を治療しており、それと合わせて流民に無料での炊き出しを行い、また罪人に軽い労働を行わせるなどの方法で信者を集めるだけでなく、自治組織としての面も持っていたとされています。そしてこの五斗米道は現代において、正一教が流れをくむ道教組織となっています。
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中国三大宗教、残る一派は?
五斗米道、そして大平道は乱世にあって多くの信者で構成されていた道教です。この道教というのは中国三大宗教の一つとされ、もう一つは当時としては幅広く思想としても浸透していた儒教がありました。
そして残る一つが皆さんも良く知る仏教です。
この仏教の中国地域へ伝来は、1世紀頃と推定され、後漢の王莽が色んなことをやっている時代に伝来してきたとされています。ですが仏教自体はそこまで浸透してはおらず、三国志の時代には殆ど見られなかった……と思いきや、意外な所に仏教信徒がいたのでした。
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熱心な仏教徒、その名は徐州の窄融
三国志の時代の熱心な仏教徒は、徐州の陶謙に仕えていたという人物で、窄融と言います。陶謙に仕えていた頃は兵糧輸送の監査官などをしていたそうですが、後に物資を奪って自立……と言って良いのかは分かりませんが、物資を奪って領内に豪華で巨大な寺院と塔を立てたと言います。その広さは3000人もの人数が集まることができるほどで、仏誕節である4月8日には毎年盛大な法会を執り行なっていました。かなり熱心な仏教徒であり、後の仏教の布教の第一人者と言っても良い人物です。
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あの呂布にも負けず劣らずだった!?
陶謙から独立した窄融は後に劉繇を盟主とし、更に広陵太守の趙昱を頼りました。しかし広陵の豊かさに目を付けると趙昱を殺害し、略奪を開始。劉繇配下として孫策と戦うも敗北、そこから逃亡して劉繇の命令で朱皓の救援に赴いて諸葛玄を破るも、野心を抱いて朱皓ら盟友を殺害したため劉繇から攻め寄せられ、最終的に逃亡した所を民に殺された最後となりました。
熱心な仏教徒ではあったものの、あちらこちらに味方しては裏切るという呂布にも負けない戦歴を持つも、野心と信仰心に武勇は付いてはいかなかったようです。名高い三国志の英雄たちの中の一人に、そんな仏教徒がいたというのは、中々に興味深いですね。しかしどうしてこんな性格の人物が仏教を信仰していたのか?そして熱心に仏教を広めていたのか?
仏教と皇帝とその思想
皇帝という立場で仏教を信仰した人物に、桓帝がいます。桓帝がどうして仏教を信仰したかということが窺い知れる理由の一つに、後漢での仏教は道教の仙人である黄帝と一緒に仏陀が祀られていることが挙げられます。この時代、仏教が伝来してきた際に道教の不老長寿思想と……意図的かどうかは分かりませんが、混ぜられてしまいました。
つまり不老長寿が目的で仏教が信仰されたのです。後漢の第11代皇帝である桓帝は男子がなく(最終的に一族の系統である霊帝が後継者に)、窄融は野心家で強欲な一面がありました。彼らがどうして仏教を信仰したか、それは様々な理由で不老長寿、もっと言うと不老不死こそが最大の目的であり、だからこそ窄融のような人物が熱心に仏教を布教した、と考えると分かりやすい理由でもあるかと思います。
もう一人の仏教学者・牟子
最後にもう一人、中国後漢末期の仏教学者であった人物をご紹介しましょう。牟子、または牟融という人物です。彼は当時の中国において、まだまだ外来思想である仏教について解説した「牟子理惑論」という仏教論書を著した人物です。この際に民衆に馴染みやすくするため、儒教や道教などを例に取り上げて、37編の問答形式で仏教を解説しています。
ここで仏教と道教の思想が混ぜられたのか……?と疑いの目で見てしまう所でしたが、寧ろ牟子は道教の術師らによる長寿の術を五経を根拠に論破していくような人物で、道師たちは牟子に弁論で立ち向かうようなことはしなかったそうです。このような経歴を見ると、仏教と道教がごっちゃになっている中でも、これらを冷静に分離、解析していた人物も当時としては少なからずいることも分かります。とはいえ乱世、民衆が求めるのは何よりも「どれだけ自分に利益があるか」という考えに傾倒してしまうというのも理解でき……宗教というものがどんな風に時代に求められていたか、それも分かるのではないでしょうか。
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三国志ライター センのひとりごと
三国志の時代の宗教と言えば、儒教、そしてやはり大平道のイメージが強い道教です。特に大平道は三国志の時代の幕開けを告げるイメージもあり、漢王朝をかなり追い詰めた宗教と言っても良いでしょう。そしてその陰には、実は仏教の姿も見ることができました。更に言うならば、その仏教の信仰の影には、各々の「思想」もどこか透けて見える所もあります。
乱世ゆえか穏やかに神や仏に祈りを捧げる宗教とは言えませんが、これもまた宗教の形……なのかもしれませんね。ちゃぽーん。
参考:
呉書劉繇伝 呉書孫策伝
牟子理惑論
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