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三国時代に隠された宗教の教え、その衝撃の内容

2023年12月30日


 

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太平道の祖・張角(黄巾賊)

 

 

今回は宗教のお話です……と言っても、堅苦しい説法をしようと言うのではありません。三国時代の宗教について、少しばかりお話させて頂きたいと思います。

 

 

霊感商法で信者を増やす張角

 

 

 

さて三国時代の宗教と言えば二大宗教とも言えるような太平道たいへいどう五斗米道ごとべいどうという道教がございますが、三国時代の宗教と言えば基本的に儒教が主でした。しかし実は仏教もごく僅かながら存在していたのです。そこについてもお話していきましょうね。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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三国志の始まりの宗教、大平道で教祖の張角

于吉と張角

 

まずは大平道たいへいどうについてお話しましょう。大平道たいへいどう張角ちょうかくを教祖として興った宗教であり、道教の一派となります。

 

張角は歴史の表舞台に登場

 

教団としては病人の治癒が主だった活動であったようで、張角ちょうかくはまず病人に自らの罪を悔い改めさせるように諭します。そして符を浸した水を飲ませ、呪術によってその病を治癒したとされています……この時、どれだけ良くなるかは「病人の信仰心」によるものとされるので、やや現代の私たちから見ると眉唾のように感じるかもしれません。

 

暴れまわる黄巾賊

 

ともあれ、この大平道たいへいどうは三国志の時代の幕開けの宗教と言っても良いでしょう。後漢こうかん末期、天災が頻発したことなどで大平道たいへいどうに救いを求める人々は多く、十数年の間に大平道たいへいどうは数十万もの信徒を得ました。

 

黄巾賊を率いて暴れまわる何儀(かぎ)

 

 

これにより「蒼天そうてん既死」……黄巾こうきんの乱が起こり、群雄割拠、乱世の時代が広まっていきます。

 

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太平道の秘密

 

 

 

五斗米道三代目教祖、漢中の張魯

五斗米道(はじめての三国志)

 

 

五斗米道ごとべいどうは通説によると、大平道たいへいどうより少し遅れて広まったとされる道教で、張陵ちょうりょうと呼ばれる人物が成都せいと付近で起こした道教教団です。

 

 

五斗米道の教祖・張魯

 

二代目は張衡ちょうこう、そして三代目は三国志でも名前が知れた張魯ちょうろが教祖となっています。五斗米道ごとべいどうとは少し変わった名前に思えますが、これは信者に五斗の米を寄進させていたことによって由来された名前です。

 

 

張魯

 

張魯ちょうろ張陵ちょうりょうの孫に当たる人物とされていますが、この祖父を「天師てんし」と崇めたことから後に五斗米道ごとべいどうは「天師道てんしどう」という名になりました。こちらも大平道たいへいどうと同じく、呪術を用いた儀式で病気を治療しており、それと合わせて流民に無料での炊き出しを行い、また罪人に軽い労働を行わせるなどの方法で信者を集めるだけでなく、自治組織としての面も持っていたとされています。そしてこの五斗米道ごとべいどうは現代において、正一教せいいっきょうが流れをくむ道教組織となっています。

 

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中国三大宗教、残る一派は?

五斗米道信者

 

 

五斗米道ごとべいどう、そして大平道たいへいどうは乱世にあって多くの信者で構成されていた道教(どうきょう)です。この道教というのは中国三大宗教の一つとされ、もう一つは当時としては幅広く思想としても浸透していた儒教がありました。
そして残る一つが皆さんも良く知る仏教です。

 

 

地盤を固める王莽

 

 

 

この仏教の中国地域へ伝来は、1世紀頃と推定され、後漢こうかん王莽おうもうが色んなことをやっている時代に伝来してきたとされています。ですが仏教自体はそこまで浸透してはおらず、三国志の時代には殆ど見られなかった……と思いきや、意外な所に仏教信徒がいたのでした。

 

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光武帝

 

 

 

熱心な仏教徒、その名は徐州の窄融

水月観音像(仏像)

 

 

三国志の時代の熱心な仏教徒は、徐州じょしゅう陶謙とうけんに仕えていたという人物で、窄融さくゆうと言います。陶謙とうけんに仕えていた頃は兵糧輸送の監査官などをしていたそうですが、後に物資を奪って自立……と言って良いのかは分かりませんが、物資を奪って領内に豪華で巨大な寺院と塔を立てたと言います。その広さは3000人もの人数が集まることができるほどで、仏誕節である4月8日には毎年盛大な法会を執り行なっていました。かなり熱心な仏教徒であり、後の仏教の布教の第一人者と言っても良い人物です。

 

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あの呂布にも負けず劣らずだった!?

冗談も言えないほど超真面目すぎる仲弓(文官)

 

 

 

陶謙とうけんから独立した窄融さくゆうは後に劉繇りゅうようを盟主とし、更に広陵こうりょう太守の趙昱ちょういくを頼りました。しかし広陵こうりょうの豊かさに目を付けると趙昱ちょういくを殺害し、略奪を開始。劉繇りゅうよう配下として孫策そんさくと戦うも敗北、そこから逃亡して劉繇りゅうようの命令で朱皓しゅこうの救援に赴いて諸葛玄しょかつげんを破るも、野心を抱いて朱皓しゅこうら盟友を殺害したため劉繇りゅうようから攻め寄せられ、最終的に逃亡した所を民に殺された最後となりました。

 

 

赤兎馬にまたがる呂布

 

 

 

熱心な仏教徒ではあったものの、あちらこちらに味方しては裏切るという呂布りょふにも負けない戦歴を持つも、野心と信仰心に武勇は付いてはいかなかったようです。名高い三国志の英雄たちの中の一人に、そんな仏教徒がいたというのは、中々に興味深いですね。しかしどうしてこんな性格の人物が仏教を信仰していたのか?そして熱心に仏教を広めていたのか?

 

呂布

 

 

 

仏教と皇帝とその思想

桓帝

 

 

皇帝という立場で仏教を信仰した人物に、桓帝かんていがいます。桓帝かんていがどうして仏教を信仰したかということが窺い知れる理由の一つに、後漢こうかんでの仏教は道教の仙人である黄帝こうていと一緒に仏陀(ぶつだ)が祀られていることが挙げられます。この時代、仏教が伝来してきた際に道教の不老長寿思想と……意図的かどうかは分かりませんが、混ぜられてしまいました。

 

つまり不老長寿が目的で仏教が信仰されたのです。後漢こうかんの第11代皇帝である桓帝かんていは男子がなく(最終的に一族の系統である霊帝れいていが後継者に)、窄融さくゆうは野心家で強欲な一面がありました。彼らがどうして仏教を信仰したか、それは様々な理由で不老長寿、もっと言うと不老不死こそが最大の目的であり、だからこそ窄融さくゆうのような人物が熱心に仏教を布教した、と考えると分かりやすい理由でもあるかと思います。

 

 

 

もう一人の仏教学者・牟子

西遊記 三蔵法師と仏像

 

最後にもう一人、中国後漢末期の仏教学者であった人物をご紹介しましょう。牟子(ぼうし)、または牟融という人物です。彼は当時の中国において、まだまだ外来思想である仏教について解説した「牟子理惑論」という仏教論書を著した人物です。この際に民衆に馴染みやすくするため、儒教や道教などを例に取り上げて、37編の問答形式で仏教を解説しています。

 

 

 

ここで仏教と道教の思想が混ぜられたのか……?と疑いの目で見てしまう所でしたが、寧ろ牟子は道教の術師らによる長寿の術を五経(ごきょう)を根拠に論破していくような人物で、道師たちは牟子に弁論で立ち向かうようなことはしなかったそうです。このような経歴を見ると、仏教と道教がごっちゃになっている中でも、これらを冷静に分離、解析していた人物も当時としては少なからずいることも分かります。とはいえ乱世、民衆が求めるのは何よりも「どれだけ自分に利益があるか」という考えに傾倒してしまうというのも理解でき……宗教というものがどんな風に時代に求められていたか、それも分かるのではないでしょうか。

 

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三国志ライター センのひとりごと

三国志ライター セン

 

三国志の時代の宗教と言えば、儒教、そしてやはり大平道のイメージが強い道教です。特に大平道は三国志の時代の幕開けを告げるイメージもあり、漢王朝をかなり追い詰めた宗教と言っても良いでしょう。そしてその陰には、実は仏教の姿も見ることができました。更に言うならば、その仏教の信仰の影には、各々の「思想」もどこか透けて見える所もあります。

 

センさんのとぷんver1

 

乱世ゆえか穏やかに神や仏に祈りを捧げる宗教とは言えませんが、これもまた宗教の形……なのかもしれませんね。ちゃぽーん。

 

参考:

呉書劉繇伝 呉書孫策伝

牟子理惑論

 

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三国志ライフ

 

 

 

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両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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