新選組局長といえば、コアな幕末ファンを除いて、ほとんどの人が近藤勇と答えると思います。しかし、実際の初代新選組の局長は近藤勇ではありません。初代局長は芹沢鴨です。今回は初代新選組局長芹沢鴨が誕生するまでと芹澤暗殺後に誕生した近藤勇による新選組が誕生するまでの過程を取り上げます。
初代新選組筆頭局長・芹沢鴨誕生まで
芹沢鴨は1832年頃に生まれ、水戸藩の浪士として新選組の前身となる壬生浪士組の初代局長となりました。近藤勇との出会いは江戸で結成された浪士組で、京都までともに行動します。この時、近藤だけでなく、剣術道場の試衛館に通っていた土方歳三・沖田総司・山南敬助たちも加わっています。
京都に到着すると、芹沢鴨は近藤勇らとともに壬生の郷士・八木源之丞の屋敷を屯所とします。清河八郎らは攘夷決行のために江戸に帰りますが、芹澤や近藤らは京都に残留することを決めました。京都の壬生にいたことから壬生浪士組と呼ばれ、後に新選組と名前を変えました。当初13名で始まりましたが、隊員が増えて大所帯になりました。新選組は筆頭局長芹沢鴨の体制のもとで、局長は新見錦と近藤勇、副局長は土方歳三と山南敬助にそれぞれ就任し、芹沢鴨による新選組が誕生しました。
芹沢鴨はいい人?素行が悪い人?
芹沢鴨は2004年の大河ドラマ『新選組!』のように素行の悪い人物という演出が多く見られるため、素行が悪いという印象を受けるかもしれません。しかし、芹沢はいい人としての一面もあったと言われています。新選組が屯所としていた八木邸では葬式の受付を引き受けたり、子供たちと一緒に遊んだりしていたという記録が残されています。
和歌に対しても才能があったといわれています。芹沢が水戸藩の浪士として天狗党に属していたとき、死刑を言い渡されると辞世の句として「雪霜に 色よく花の魁て 散りても後に匂ふ梅が香」を残しています。
芹沢鴨暗殺、近藤勇の新選組が誕生へ
芹沢鴨は仲間の近藤勇らに暗殺されました。なぜ、芹沢は暗殺されたのでしょうか。暗殺された要因として壬生浪士組の中での対立が挙げられます。筆頭局長の芹沢鴨を除いて、ほとんどの局長以下の役職が近藤勇を慕っている隊士でした。
芹沢鴨の素行に問題があったことも挙げられます。芹沢は酒癖が悪く、問題行動を度々起こしていました。芹沢鴨の暗殺の経緯は次の通りです。1863年9月に芹沢は八木邸で寝ていたところを襲われたといわれています。この証言は、新選組の元隊士で明治以降も生き残った永倉新八や当時八木邸に住んでいた目撃者によるものです。
芹沢暗殺のきっかけは、芹沢派の中で局長になっていた新見錦が局長という立場を利用して遊郭通いに没頭するなど決まりに違反する行為を繰り返していました。壬生浪士組の決まりで、新見は斬首されるか切腹するかで迫られ、切腹することを決めました。このことが芹沢の暗殺のきっかけになったといわれています。芹沢は新見の切腹から約1ヶ月後に暗殺されました。暗殺当日、八木邸に土方歳三や沖田総司など近藤派が集まりました。芹沢らが芸者と八木邸で騒いだ後、寝ていたところを土方らに斬り殺されました。結果、芹沢が暗殺されたことにより近藤勇局長の新選組が誕生しました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は初代新選組局長の芹沢鴨について取り上げました。芹沢は京都の壬生にある八木邸で暗殺されました。八木邸は現在も保存されています。暗殺されたときの机の配置や柱の刀傷も当時のまま残されています。八木邸へのアクセスは阪急電鉄大宮駅から徒歩10分、京福電鉄四条大宮駅から徒歩1分の場所にあります。
その後、新選組は会津藩のもとで京都市内の警察を担当し、過激な尊王攘夷派を取り締まりました。戊辰戦争で局長の近藤勇が斬首されると、土方歳三が新選組を率いますが、函館戦争で土方が戦死すると解散しました。
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