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勝海舟、西郷隆盛と歩んだちょい悪親父の[真実]

2024年5月6日


薩長同盟が結ばれるシーン 坂本龍馬と西郷隆盛と桂小五郎

 

 

幕末(ばくまつ)の映画やドラマには主役ではなくても必ず登場する人というのがいます。薩長同盟(さっちょうどうめい)大政奉還(たいせいほうかん)に関わった坂本龍馬(さかもとりょうま)が筆頭ですが、その龍馬の師匠筋の勝海舟(かつかいしゅう)もそんな一人に挙げられるでしょう。

 

 

勝海舟

 

 

勝海舟は、非常に顔が広い人であり、幕府にも薩摩にも長州にも越前にも土佐にもなんらかの知人がいて海舟を出さずに幕末ドラマを展開するのは難しい程です。一方で海舟は有り余る才気と不平屋の一面から余計な一言や行動を行い、肝心な時にクビになったり、政敵に陥れられたりで将来が見える人ながら幕臣としての最期の大仕事が江戸城を明け渡すという屈辱的なモノになるなど辛酸(しんさん)を舐める事も多い人生でした。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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犬に金玉を噛まれるも驚異の生命力で生還

犬

 

勝海舟は、1823年、文政6年、江戸本所亀沢町で旗本勝小吉(かつこきち)の長男として生まれます。幼名は麟太郎(りんたろう)、勝家は徳川家康が天下を獲る前から仕えた譜代の旗本ですが、禄高は41石に過ぎず、役職にもつけない貧乏ぶりで父である小吉は、商人の用心棒や刀剣の目利きなど、下町の顔役として細々と生計を立てていました。

 

海舟は少年期から聡明で、小吉は非常な期待をかけていましたが、9歳の頃に道で野犬に金玉を噛まれ、生死の境を彷徨う経験をしました。この時、父の小吉は献身的に海舟を看病し、その甲斐もあり70日程では回復しています。海舟は幼少期の体験がトラウマになり犬は大小関係なく生涯嫌いでした。

 

一時期の海舟は剣術に打ち込み、島田虎之助(しまだとらのすけ)に師事して腕は直心影流(じきしんかげりゅう)の免許皆伝で同時に禅に傾倒して心胆を練り上げています。ただ、海舟は小吉と違い血なまぐさい事は大嫌いで生涯剣を抜く事もなく、狩猟に出ても、わざと弾を外して鳥を撃たず、虫の居場所がなくなるという理由で家の雑草もあまり取らないような平和的な性格でした。

 

 

蘭学と兵学に打ち込み、阿部正弘に見いだされる

阿部正弘に見いだされる

 

若き海舟は貧乏から抜け出そうと知恵を絞ります。時代は外国船が頻繁に来航する幕末を迎えており海舟は今後は外国語が出来ないと活躍できないと考え、オランダ語を学び西洋知識をどんどん吸収しました。この頃、佐久間象山(さくましょうざん)の知遇を得て、象山から西洋兵学も学びなさいと言われ砲術なども取得していきます。

 

抜け目ない海舟は自らも学びながら蘭学塾を開いて弟子を取ったり、オランダ語辞典を人から借りて、二冊同時に書き写し、一冊は売却してお金に変えるなど金銭面でも抜け目がない才能を示します。海舟の見通しは的中し、1853年ペリー来航を受けて老中阿部正弘(あべまさひろ)は広く民間にまで意見書を求め海舟は即座に意見書を提出します。

 

海舟が提示した意見とは、

 

 

身分に捉われず将軍の前で政治を協議する

軍艦を建造して、盛んに貿易を行う

敵が上陸した時に備えて、海岸防備を拡充していく

旧式の軍隊を西洋式の最新鋭の組織へ切り替える

砲撃の為の火薬を独自で調達する

 

等々で今から見れば、ふーんという程度の平凡さですが、当時の意見書には、西瓜(すいか)売りに見せかけて黒船に乗り込み、出刃包丁で異人を皆殺しにするというような意見やただ開国を引き延ばせという消極論や無暗な攘夷論(じょういろん)が溢れていたので海舟の卓抜した意見は阿部の目に留まり、異国応接掛附蘭書翻訳御用(いこくおうせつがかりつきらんしょほんやくごよう)に登用されます。

 

 

しぶしぶ行った長崎留学で安政の大獄を免れる

 

その後海舟は、幕府が海軍士官を養成する為に創設した長崎の海軍伝習所(かいぐんでんしゅうじょ)への留学を命じられます。ところが、語学と兵学だけで海軍は専門外の海舟は不満たらたらですが、やっと目を掛けてもらった所ですから嫌とは言えません。そして1855年から1860年まで丸々5年を長崎で過ごすのです。同時期に長崎にきた人材が二年程で江戸に帰る中、どうして、海舟だけ長崎留学が長引いたのでしょうか?

 

学力不足等、色々な説がありますが、海舟はオランダ語に巧みで本音をズバズバ言いオランダ人とは相性が良かったからのようです。その為、新任のオランダ人教官が来た時の引継ぎにどうしても海舟が必要という事になり江戸に帰れませんでした。ただ、五年間長崎で海軍を学んだ事で、海舟は日本随一の海軍の専門家に成長していました。日本海軍創設の父、勝海舟は5年間の長崎留学で誕生したのです。しかも江戸から遠い長崎にいた事で、海舟は安政の大獄の政争から全く無縁でいられた事も大きなプラスでした。860年1月、海舟は伝習所で学んだ事を活かす目的で咸臨丸でサンフランシスコまで太平洋横断航海を行います。

 

 

その2か月後、大老井伊直弼(いいなおすけ)は、桜田門外で水戸浪士等の襲撃に倒れ日本は動乱の巷に落ちていきます。結局海舟は、長崎留学とアメリカ派遣で、安政の大獄と桜田門外の変という日本史の大きな激動を乗り越える事に成功したのでした。

 

 

アメリカから帰国するとさっそく干される

 

5か月のアメリカ派遣から帰国した海舟は、アメリカの海軍力を視察して、日本も一刻も早く海軍力を増強すべきと強く思うようになります。ところが帰国した海舟を待っていたポストは、講武所砲術師範という海軍とは切り離されたポストでした。これを左遷(させん)と受け取った海舟は不満爆発、おまけに井伊大老の後を受けた、安藤信正(あんどうのぶまさ)久世広周(くぜひろちか)は、穏健派で事なかれ主義に終始したので、海舟の意見書はことごとく採用されませんでした。

 

 

「やってられるか!」人一倍の向上心と功名心がある海舟は完全に腐り講武所の勤務は不真面目極まるものになります。驚異的な集中力と、不満が爆発した時の信じられないやる気の無さは、その後の海舟の人生にも大きく作用していきます。

 

 

島津久光の上洛で返り咲くも、またやらかしてしまう海舟

島津久光の上洛

 

安藤信正&久世広周は、井伊大老がやり残した公武合体を推進しますが、その事に危機感を抱いた水戸浪士が今度は坂下門外で安藤を襲撃します。安藤は背中を斬られたものの、無事に城内に逃げ込み、包帯姿でイギリス公使と会見するなど老中の意地を見せましたが、背中に刀傷を受けたという事で、狼藉に怯えて逃げたという悪評があがり結局、老中をクビになってしまいます。

 

一蓮托生の久世広周もクビにされ、新任の老中は開明派の板倉勝静(いたくらかつきよ)井上正直(いのうえまさなお)水野忠精(みずのただきよ)などが占める事になります。さらに同年、島津久光が朝廷と雄藩の要望を持って江戸城に登城し、幕府に改革案を飲ませ文久の改革が始まりました。これにより謹慎処分にあっていた松平春嶽や、一橋慶喜が再び政治に返り咲き、講武所に左遷されていた勝海舟も軍艦奉行並の肩書で再登用されます。

 

江戸城

 

しかし、やっと念願の軍艦奉行並になって僅か3日後、海軍力の増強を図る会議に出席した海舟は、幕府の海軍力増強には、何年程掛るか?という上役の質問に対し、「500年掛っても無理で御座います」とブチあげてしまうのです。

 

会議は一瞬にしてざわつき、全員が渋い顔をして海舟を見ました。(しまった・・)と思った海舟ですが、もう手遅れでした。この一件は、勝は仕事は出来るが、生意気な男であるという印象を幕閣に植え付けてしまいます。

 

どうして海舟は500年掛っても無理と言ったのか?

次元の高い考えを抱いてた勝海舟

 

しかし、海舟にも言い分はありました。彼が干されている間にまとめられた海軍増強案は諸藩に金だけ出させて370隻の軍艦を建造させ、日本の六ケ所に海軍の拠点を構えて、6万人の兵員を配置するというものでした。

 

(幕府のお偉いさんというのは、どいつもこいつもボンクラばかりだ、

いまだに藩から金だけ集めれば海防は幕府だけで出来ると己惚れていやがるのか!

今は幕府も藩もねえ!優秀な人材をどんどん採用して人材を育成して

日本がひとつにならねえとダメなんだよ、バカ奴め!!)

 

こういう不満がどんどん増幅してきてしまい、それが皮肉とも茶化すとも取れないような500年発言に繋がったのです。ただ、怪我の功名と言うべきか、元々無理筋な計画だったのか、海舟が皮肉を言った結果、計画は頓挫してしまいました。

 

 

徳川家茂と姉小路公知を抱き込んで海軍操練所を開設

徳川家茂

 

実際に政治に関わってみて海舟が思ったのは、幕府の人材は制約だらけで雁字搦(がんじがら)め、いかに尻を叩いても動かない事実でした。そこで勝は、盟友の越前藩主の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)と春嶽のブレーンである横井小楠(よこいしょうなん)と連携しスタンドプレーで自分の理想を実現しようとします。勝がどうしても実現したいのは、日本中から有志を集めて海軍士官の教育をする海軍操練所の設立でした。

 

 

 

抜け目ない海舟は、幕府が入学を決める枠以外にも、自分の私塾を併設し、尊攘派の志士なども積極的に入塾させようとします。折よく、京都では朝廷を牛耳った長州藩により、徳川家茂の上洛が決定、海舟は海軍力の必要性をPRするチャンスと経費削減を理由に海路での上洛を提案し一度は了承されますが「公方様に万が一があっては」と言う慎重論に押され結局、白紙撤回されてしまいます。

 

ガッカリする海舟ですが、それならばと江戸から陸路で上洛する家茂を大阪で待ち受け、1863年の4月23日に京都から大阪に戻った家茂を順動丸に乗せ兵庫まで案内しました。家茂は若年でしたが聡明な人物であり、兵庫沖で少し船が揺れた時に、御付きの重臣が海舟に偉そうに指示を出すのを制止し「船の船長は勝である、海上では余を含め全ての人間が勝の指示に服さねばならぬ」と発言しました。身分に(こだわ)らない家茂の立派な態度に海舟は心から感激し、(この将軍の為なら命も要らない)と決意したのだそうです。

 

 

 

 

勝は家茂に海軍操練所のプランを話して了承を得、同時に尊攘派公卿の姉小路公知(あねこうじきんとも)も軍艦に乗せて海を見せて同様の説明をしました。その結果、海軍操練所の設立許可が下ります。姉小路公知は、鉄を自前で製錬する為の製鉄所の建設でも尽力してくれ幕府だけではない諸藩をまとめた日本海軍の構想は実現するかに思えました。

 

 

禁門の変で再び謹慎へ追い込まれる

 

しかし、海舟の日本海軍創設の試みは激動の幕末の奔流に押し流されます。海軍操練所や製鉄所の開設に尽力した姉小路公知は尊攘派により暗殺。上洛した徳川家茂は、不可能な攘夷を約束させられ、松平春嶽は、家茂と路線対立してしまい、政局を放り出して国元へ帰ってしまいます。開国派の海舟は、味方を失い立場を悪化させる事になりました。

 

それに追い打ちを掛けたのが、八・一八の政変でした。過激な尊皇攘夷を標榜する長州藩は、薩摩藩と会津藩を主体とする公武合体派に京都を追放されてしまうのです。さらに禁門の変で長州藩が壊滅した事で政局は完全に尊皇攘夷から、公武合体派に移っていきました。

 

坂本龍馬

 

 

海軍操練所に併設した海舟の私塾では、坂本龍馬のような浪人者を多く擁していた事もあり、海舟は倒幕のスパイを養成していると危険視され、1864年の11月に軍艦奉行をクビになり2年の蟄居を余儀なくされます。苦心惨憺して産み出した海軍操練所も私塾も1865年には閉鎖され、海舟の日本海軍の夢は頓挫しました。

 

 

西郷隆盛と大阪で会見し幕府をdisりまくる

 

勝海舟が西郷隆盛と初めて会見したのは、1864年の9月の事でした。ここで、海舟は鬱憤(うっぷん)を溜めていた幕府への不満をぶちまけ、もはや、長州だの幕府だので兄弟喧嘩(きょうだいげんか)をしている場合ではない事や、日本の内乱を西洋列強は狙っている事、一刻も早く幕府や藩の垣根を超えた統一日本の政体を産み出さないといけないと述べました。

 

この会見は、長州に対して厳しい処遇を考えていた西郷の態度を軟化させ同時に驚くほどにしきたりに雁字搦めで機能不全に陥っている幕府の実情を外ならぬ幕臣の海舟から聞いた事で、幕府に対しても薩摩は距離を置くべきと決意させたとも言われています。西郷どんは、大久保利通宛ての手紙で、海舟の印象について「ひどく惚れ申し候」と好意的な手紙を書いています。

 

 

第二次長州征伐停戦を担当するが徳川慶喜にハシゴを外される

徳川慶喜にハシゴを外される

 

再び海舟に出番が回ってくるのは、1866年の5月の長州征伐の途中でした。一度は降伏し、謝罪恭順した長州藩ですが、幕府がモタモタしている間にクーデターが発生して高杉晋作の奇兵隊が藩政を掌握し、再び幕府に敵対します。幕府は再び討伐を考えますが、長州と極秘に同盟を結んでいた西郷は出兵を拒否、これに対して会津藩が不信感を示し、討伐軍の足並みが揃わないのです。

 

高杉晋作

 

 

老中、板倉勝静の命令で会津藩と薩摩藩のトラブル解消と薩摩藩の出兵を促す海舟ですが、薩長同盟がすでに成立している以上、薩摩は出兵せず会津との関係も悪いままでした。足並みが揃わない幕府軍は、新式銃で武装した士気の高い長州軍に各地で撃破され早くも敗色濃厚、おまけに14代将軍、徳川家茂が21歳で大坂城で病死後継者になった一橋慶喜は海舟を呼び出して、今度は長州との停戦交渉を任せられる事になります。ところが、すでに勝ち戦気分の長州はそう簡単に停戦交渉には応じません。海舟は苦戦を強いられ、ようやく退却する幕府軍に追撃しない事の確約と再交渉の余地を残すのが精一杯でした。

 

天皇のシルエット

 

 

ですが、お前に全て任すと海舟に全権を委任した筈の慶喜は、天皇から停戦の勅令を引きだしてしまいます。こうして、勝は停戦の勅令までの時間稼ぎに使われ長州を欺いた形で終ってしまったのです。

 

「なんてェ、姑息な事をしやがる!ふざけんじゃあねえよ」海舟は慶喜の二枚舌に激怒、辞表を叩きつけて江戸に帰ります。辞表は受理されませんでしたが、以後の海舟は大政奉還までひたすら事務職に徹して政治の表には出なくなります。

 

 

運命の江戸無血開城 海舟徳川の運命を背負う

 

時代は風雲急を告げていきます、孝明天皇(こうめいてんのう)崩御(ほうぎょ)から明治天皇の即位、将軍になった徳川慶喜は強力な薩長の討幕の機運を逸らそうと大政奉還で一度は政権を返上し、徳川家の勢力を温存するウルトラCを発動しますが、薩長はクーデターを決行して、一会桑の勢力を御所から追放して、王政復古の大号令を発布し、慶喜を新政府から排除しました。

 

さらに慶喜を天皇の敵にする為に最初の一発を撃たせようと江戸で浪人を大量に雇い火付け強盗を繰り返し、挑発を繰り返します。これに我慢できなくなった幕府は江戸の薩摩藩邸を焼き討ちにしました。報告を受けた大阪の幕臣も激発し、慶喜を担いで大阪から京都に進軍し、途中でこれを阻止しようとした薩摩兵と交戦し、鳥羽伏見(とばふしみ)の戦いが勃発。薩長の思惑通り、慶喜は朝敵になってしまいます。しかし、慶喜には朝敵になってまで戦うつもりはありません。大阪城に兵士を残して夜中、松平容保(まつだいらかたもり)松平定敬(まつだいらさだあき)を引き連れて江戸に脱走正月早々で暇でブラブラしていた海舟を呼び出し、

 

徳川慶喜

 

 

「こんな有様になった、、私は以後、一切謝罪恭順するから、あとはお前がまとめてくれ、徳川を宜しく頼む」

 

と頭を下げて海舟に頼み込みました。

 

(勝手な事を、、何を今さら・・)と海舟は思いますが、憔悴しきった慶喜を見れば、自分の目からも涙がこぼれてきます。これ以上叱り飛ばす事も出来ませんでした。そして、今や風前の灯となった徳川を救う決意をします。

 

 

やぶれかぶれの尻まくり戦法で150万江戸市民を救う

 

勝海舟は陸軍総裁から陸軍大臣クラスの陸軍取扱に昇進し終戦工作に当たります。これまで海舟を引き立てた財務大臣クラスの会計総裁、板倉勝静との作業です。しかし、平時と違い幕府の人心は揺らいでいて恭順派と抗戦派に分離、海舟自身も恭順派の首魁として抗戦派に憎まれ暗殺の危険がありました。

 

幕府陸軍は頼りにならないと見た海舟は江戸の町火消しや博徒(ばくと)のようなアンダーグラウンドの力を頼む事にします。海舟の降伏条件は、徳川慶喜の助命と身柄の保障、徳川の自発的な武装解除や慶喜を擁護した藩の要人を処罰しない事等これが決裂した場合には、最後の一戦に臨むと覚悟します。具体的な作戦プランは、1812年にロシアがモスクワ防衛に使ってナポレオンを退けた焦土作戦を参考にしたものであり以下の内容です。

 

1江戸町火消しに火薬を使って放火させ江戸市中を焼き払い、

住民はありったけの船を使って千葉方面に避難させる。

2江戸に上陸してきた薩長兵には、博徒や魚屋が手持ちの武器を使い

ゲリラ戦を仕掛けて足止めする。

3幕府艦隊は箱根あたりで待ち伏せて砲撃、薩長の後続部隊を断つ

4慶喜はイギリスの軍艦で亡命させる

 

これだけの下準備をして、海舟は1868年3月13日と14日。東征大総督として江戸にやってきた旧知の西郷隆盛との会見に臨んだのでした。(来るなら来やがれ、こっちはもう尻をまくって怖いもんなしだぜ)

 

西郷は、海舟の要求を完全に飲むには至りませんでしたが、海舟の意向に沿うように尽力する事を約束し、3月15日に予定していた江戸総攻撃は延期される事になりました。その後も交渉は続きますが、4月11日までには双方の擦り合わせが終了、江戸城は薩長軍に引き渡され、ここに奇跡の江戸無血開城が実現しました。150万人と言われる江戸市民は人命と財産の全てを救われたのです。幕末ちょい悪親父、勝海舟の最大の功績と言えるでしょう。

 

 

幕末ライターkawausoの独り言

幕末ライターkawausoの独り言

 

勝海舟の立場も大変でしたが、西郷隆盛の立場もまた大変でした。その時点で薩長軍では維新の功績を巡る手柄争いが起きていたのです。実は海舟は、それ以前に山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)が西郷とまとめた条件も大半守れておらず本来なら交渉が破裂してもおかしくない状況でした。

 

「西郷さん俺も抗戦派の説得で苦しいんだ、無理難題だが一つ頼むよ」

 

というのが海舟の正直な感想だったのです。事実、海舟の返答は「俺に任せてくれ」という口約束だけであり、(はなは)だ頼りないものでしたが、西郷は海舟を信じて条件を呑んだのでした。海舟もそれは痛感していて、相手が西郷じゃなかったら、交渉は上手くいかなかっただろうと回想しています。もちろん、江戸無血開城は海舟と西郷だけの手柄ではありませんがお互いを信じた二人が歴史の巡り合わせで終戦工作を担当したのは日本史の幸運とよべるものでしょうね。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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