幕末の大河ドラマで、坂本龍馬の上司で土佐藩の藩主として山内容堂が登場します。山内容堂と言えば藩政改革で雄藩として台頭し、四賢候として幕政に関与することになりました。この記事では、山内容堂についてなぜ酒におぼれるようになったのか。その経緯について取り上げます。
この記事の目次
藩士が自分の言うことを聞かない
山内容堂が土佐藩の藩主になります。藩主になった経緯について、13代・14代土佐藩の藩主が相次いで死亡したため、跡継ぎを定めないままに死亡すると「お家断絶」とみなされ、山内家は消滅、領地は幕府に没収されるところでした。
ところが、藩の家臣たちが藩主の死を隠したまま容堂を跡継ぎにすることを幕府に願い出ます。幕府はこの隠している事実を知りながら、容堂の藩主就任を認めました。以降、容堂が大政奉還まで幕府をかばおうとしました。山内容堂が土佐藩の藩主になった頃、幕府は公武合体を模索していました。容堂も公武合体派でしたが、土佐藩内では尊皇攘夷派の土佐勤王党が台頭し、容堂の抜擢した吉田東洋と対立します。
吉田東洋は土佐勤王党によって暗殺される事態に至りました。容堂は禁門の変後、土佐勤王党の弾圧を始めます。首領の武市半平太は切腹を命じられ下士(身分の低い武士)に対して斬首し、土佐勤王党は壊滅しました。
幕府が自分の言うことを聞かない
山内容堂は徳川慶喜を推したことに伴い、安政の大獄で謹慎処分を受けました。井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると、幕政に関与するようになりました。容堂は公武合体を模索して幕府に意見を言いますが、説得しても言うことを聞かなくなりました。幕府の権威が失墜していたことが原因として挙げられます。
部下に言われるがまま動かざるを得ない
1867年、山内容堂は公武合体を模索していましたが、倒幕の動きに逆らうことができなくなりました。坂本龍馬が発案した船中八策を後藤象二郎から進言されます。それから容堂は15代将軍徳川慶喜に大政奉還を建白したと言われています。
新政府で発言力を持てない
1867年12月の京都御所内で行なわれた小御所会議において、倒幕を目指していた薩長に対して、山内容堂は幕府を擁護する言動や行動を取りました。容堂が幕府を擁護した理由として、薩長が推進する倒幕運動が下級藩士層の突き上げ運動にすぎないという見方が挙げられます。結果として幕府は倒れ、明治政府がスタートしました。容堂ら大名階級の人々は華族という身分になりましたが、全ての政治的な実権はなくなりました。また、1871年に廃藩置県が行われ、大名だけでなく藩の存在も消滅することになりました。
ストレスを抱えた容堂は「酒」を楽しむ
明治新政府に内国事務総裁に任命されますが、ほとんど政治に積極的に参加することなく、1869年に辞職しました。晩年は東京で過ごし、酒と詩を楽しんだと言われています。1872年、46歳で脳溢血により死亡しました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は山内容堂が藩主になってから酒におぼれるまでの過程について取り上げました。容堂が土佐藩主になってから藩士が抜擢した吉田東洋を殺害するなど言うことを聞かないという悩みから酒におぼれたのかもしれません。
安政の大獄による謹慎が解かれてから政治に関与しますが、幕府が自分の意見を聞かないことに悩みました。坂本龍馬と後藤象二郎の意見に従わざるを得ない状況になり、思い通りにならなかったことがやけ酒の原因になったのかもしれません。
『山内容堂と坂本龍馬、2人の関係は「理想の上司と部下」だったのか?』では、藩政改革に取り組んだ山内容堂について取り上げていますが、やけ酒のせいで容堂の功績が評価されにくくなっているのかもしれません。今後、山内容堂による藩政改革に注目したいと思います。