ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく「ろひもと理穂の三国志・もしもボックス」のコーナーです。
「泣いて馬謖を斬る」この言葉は三国志ファンであれば知らない人はいないくらい有名です。三国志のことをよく知らない人でも使っているほどですね。
寵愛していた馬謖が作戦に失敗したために、諸葛亮孔明は泣く泣く敗戦の責任をとらせて処刑したというものです。私情を挟まず公平に処した諸葛亮孔明の手腕が評価されています。
なぜ馬謖は街亭で山上に布陣したのか。そのせいで街亭の守りは破られて、蜀軍は撤退することになります。馬謖が兵法書にあるマニュアルどおりに布陣したためですね。
副将の王平はしきりに反論しますが、馬謖は文字も読めない王平の意見など聞く耳も持ちませんでした。では、馬謖が街亭の街道に兵を配置していたら、第一次北伐は成功していたのでしょうか。
上庸の誤算
第一次北伐は大きな誤算から始まっています。魏の上庸を守る孟達が寝返る手はずになっていました。そこに趙雲と鄧芝が合流し荊州の要である襄陽を突く計画です。
しかし宛にいた驃騎将軍の司馬懿が孟達の離反を疑って警戒しており、予想できない速度で進軍し孟達を討ちます。ここで大きな誤算が生まれているのです。諸葛亮孔明は完全に後手に回ります。趙雲・鄧芝を褒斜道より北上させて郿を攻める方針に変更するのです。
本命は西の祁山
魏は明帝(曹叡)が長安にまで親征してきています。直接指揮をするのは大将軍の曹真になります。曹真は趙雲の動きを警戒して郿の守りを固めました。実はこれが諸葛亮孔明の狙いであり、この隙に本陣が天水から回り込み長安を落とすという戦略だったのです。諸葛亮孔明は名将・趙雲を囮に使ったことになります。本陣のある祁山近郊の天水、南安そして安定が蜀に呼応しました。
街亭の死守
魏が長安から涼州へ進む際にも、そこから南下して武都へ出るにも必ず通ることになるのが「街亭」でした。今回の作戦上、武都を押さえられると、本陣の祁山と本拠地の漢中が分断されて連絡が取れなくなります。祁山からの撤退を余儀なくされるのです。街亭を失うと第一次北伐は失敗に終わることは明らかでした。そのことは当然、魏の側も承知しています。張郃に五万の兵を与えて街亭に向かわせます。対する馬謖は三万とも一万ともいわれています。兵力は不利な状況でした。
街道に配置して防げたのか
圧倒的に兵力で劣っている馬謖は山上に布陣します。逆落としをくらわせる予定だったのでしょう。高きより低きを攻めるのは兵法の常道です。しかし馬謖は勝つためではなく敵を防ぐために街亭に送られていたのです。諸葛亮孔明の戦略の一番肝心な部分を馬謖は見落としていました。
では山上の陣を囮にして、街道に伏兵を配置しておけば張郃の進撃を止められたのでしょうか。まず張郃を撃破するのは不可能でしょう。兵力で劣っているうえに張郃は歴戦の勇で、馬謖とは実践の経験がまるで違います。乱戦になったら馬謖側は壊滅に近い損害を受けていたはずです。それを覚悟で守り抜くことを馬謖は要求されていました。
しかし、馬謖が山上に布陣したからこそ、張郃は山を囲い水源を断って持久戦を選択したわけです。結果、馬謖を倒すのに長い時をかけています。時間さえかければ祁山の本陣が動くと馬謖は期待していたのかもしれません。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
街亭を守り抜くには砦などの堅固な防衛手段が必要だったと思います。後手に回っていた諸葛亮孔明にはその時間的余裕はなかったのでしょう。囮となった褒斜道を進む趙雲も箕谷で大敗しています。孟達の離反を看破された時点で第一次北伐は失敗しているのです。むしろ馬謖が時間を稼いでくれたおかげで祁山の諸葛亮孔明の本隊は無傷で撤退できたのではないでしょうか。馬謖が街道に布陣していたら蜀の損害はもっと大きかったのではないかと私は思うのです。皆さんはどうお考えですか?
▼こちらもどうぞ