後漢の時代には、髠(こん)刑のように、髪をそり落とす刑があったり、
刺青を入れる刑があったり、現代とは違うものがありました。
また、その中には、保辜(ほこ)という、これまた現在にはない刑罰もあります。
ある意味では、合理的とも言うべき保辜とはどのような刑罰だったのか?
現代の刑法と比較して紹介してみたいと思います。
この記事の目次
犯罪の結果責任を負わせる刑罰 保辜
現在の日本の刑法では、相手を殺すつもりで傷を負わせても、
相手が死ななかった場合には、傷害罪ではなく殺人未遂罪が適用されます。
殺人未遂罪と言うと、なんだか殺人よりは軽そうな刑罰ですが、
実際には刑の重さは殺人罪と変わらず、死刑または5年以下の懲役です。
一方、漢の時代の刑法は、これとは少し違っています。
加害者と被害者の間でトラブルがあり、一方が相手を殺してしまった時は
もちろん殺人罪ですが、殺すまでには至らず、傷を負ってしまった時には
保辜という刑罰が適用されていたようです。
被害者の容体を見て死亡したら殺人罪、回復したら傷害罪
保辜は加害者が被害者を殺そうとしても死なず、
重傷を負った場合に、10日間治療しながら様子を見て、
治療の甲斐なく被害者が死んだ場合には、賊殺人の刑、
相手が死ななかった場合には賊傷害の刑に処すという決まりです。
「賊」というのは一方的に手を下すという意味で、
お互いに殴り合うようなケースでは「闘」という文字が使用されます。
加害者は、10日間に渡り拘束され、被害者の容体を見ます。
そして、回復力次第で、殺人罪か傷害罪か決定するのです。
現代の殺人罪に比較して幅があった後漢の刑罰
こうして、考えると、後漢の時代の刑罰は、殺意がある場合には、
未遂だろうが、殺してしまおうが同程度の罪になってしまう
現代刑法よりは、量刑に幅があったと言う事が出来ます。
ただ、殺意があったかどうかに量刑がよらないという事は、
殺すつもりがなくても、結果死んだ場合には賊殺人ですから、
殺意の有無には関係なく、被害者の状態による事になります。
もし、殺意がなく、保辜を受ける事になったら、
加害者は「どうか助かってくれ」と祈らずにはいられなかったでしょうね。
逆に言えば、加害者が殺すつもり満々の場合はどうなるのでしょう。
相手が助かって、賊傷害になった場合、刑期を終えたら、
さらに被害者に襲い掛かるというような事にならなかったのでしょうか?
もっとも、現代の刑法でも、殺人未遂罪は重いとはいえ、
被害者を殺す事を加害者が思いとどまったような場合には、
情状酌量が下される事になっています。
関連記事:こんなの絶対に入りたくない!三国志の時代の牢獄は酷すぎた…当時の刑罰も合わせて紹介
関連記事:三国志時代のセキュリティはどうなっていたの?何でもかんでも機密保持じゃい!
判決が決まっていない容疑者に武器を与えた場合
保辜には、もう一つの規定があります。
それは、罪が確定していない未決囚に自殺可能な武器や、
縄を与えその武器で、容疑者が自殺ないし、他人を傷つけたりして、
保辜20日の間に死亡した場合には、武器を与えた者は、
髠刑に処した上で強制労働の刑に処すという決まりです。
このような刑罰があるという事は、容疑者に武器を差し入れ、
脱獄の手助けをしたり、或いは自殺を促したりするような人が
いたという事でしょう、なかなか、闇が深そうな話ですね。
三国志ライターkawausoの独り言
このような、賊殺人、賊傷害の原因は、
多くの場合、金銭トラブルだったようです。
中国では、2000年以上前から貨幣経済が発達していて、
人間関係のトラブルの大きな要因になっていたとか・・
当時の木簡を見ていても、今と変わらず、
やれ金を貸しただの、金は返しただの、借りた覚えはないだの
双方が認識の違いを、やいやい言うような事になっています。
人間は2000年経過しても、あまり変わらないものなのかも
知れませんね。
関連記事:三国志時代に降伏や降参するときはどうやってサインを出していたの?
関連記事:【素朴な疑問】三国志時代はどうやって兵士を集めていたの?