【素朴な疑問】三国志時代はどうやって兵士を集めていたの?

2016年8月10日


 

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張遼・楽進・李典

 

いかに、関羽(かんう)張遼(ちょうりょう)甘寧(かんねい)が無双に強くても、たった一人では雲霞のごとき敵兵に呑まれて死んでしまいます。ゲームでは数、あるいは、100人ワンセットの兵卒ですが、これがなければ、三国志は格好がつかない事も間違いないでしょう。

 

でも、そんな兵力は、どうやって調達していたのでしょうか?

 

武将になる方法(調整ver2)

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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ゲームのように上手くはいかない、シビアな兵力集め

曹操 夏侯惇

 

それがSLGならボタン一発で万単位の兵も集められますが、もちろん現実社会では、そう簡単ではありません。では、当時の群雄は、どのような方法で兵力を集めていたのでしょうか?

 



兵を集める方法 1 立て札で募集をかける

曹植

 

個人では無理ですが、一定の兵力を率いている群雄なら支配地域に「扁」(へん)と呼ばれた立て札を立てて募兵する方法がありました。これなら、多くの人々の目に触れますし、あらかじめ選抜の日時を指定しておけば、大きな手間なく人を集める事も出来ます。

 

劉備を支援する麋竺

 

一番、有名なのは黄巾賊討伐の為に漢王朝が義勇軍を募った事例で劉備(りゅうび)の人生も、その募兵の立て札を契機に変わったのです。

 

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兵を集める方法 2 直接、スカウトしてゆく

曹操 夏侯惇

 

特定の支配地域もなく、勢力も小さい場合には、群雄が自ら、人が居そうな所へ行き直接募兵する方法もあります。これは、反董卓連合軍に参加して、董卓軍の徐栄(じょえい)に大敗した曹操(そうそう)が、配下の夏侯惇(かこうとん)を連れて揚州で募兵をしたという記録が武帝記に残っています。

 

太祖兵少、乃與夏侯惇等詣揚州募兵

刺史陳温丹楊太守周昕與兵四千餘人

還到龍亢士卒多叛 至銍建平

復收兵得千餘人、進屯河内

これを見ると、曹操は夏侯惇と揚州まで行って募兵し刺史の陳温(ちんおん)丹陽の太守、周昕(しゅうきん)に兵4000を与えられたが、龍亢で士卒に逃げられ、さらに建平という所で再び募兵し、兵1000を得て河内に進駐したとあります。

 

晩年こそ、数十万の兵を動員するに至った曹操ですが、この頃は、4000名の兵を維持する事も出来ず、途中で逃げられ仕方なく、再び募兵して、やっと1000名を得て何とか面目を保った様子が見てとれます。

 

これは、つまり初期の曹操が雇い先として、大して魅力が無く、兵士達の気持を繋ぎ止められなかった証拠でしょう。

 

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兵を集める方法 3 敗残兵を吸収してしまう

孫策

 

ある程度の兵力があり、募兵の気苦労を味わいたくないなら、敵対する城市や山賊、盗賊の類を討伐して、その勢力を吸収する方法もあります。

 

江東の小覇孫策(そんさく)は、袁術(えんじゅつ)の下を離れた時には数千の兵だったものが周瑜(しゅうゆ)と合流し江東を攻略するに当たり、数万にまで兵力が膨れ上がっています。

 

実際に、孫策が配下の陳武(ちんぶ)に劉勲(りゅうくん)の敗残兵を与えているシーンもあり孫策が、この方法を多用した事が分ります。

 

これは、手っ取り早い方法ではありますが、中には仕方なく従っている兵士や、隙あらば独立しようと考える連中もいるでしょうから、それを指揮する大将には、強烈なリーダーシップが求められる事は言うまでもありません。

 

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兵を集める方法 4 地元豪族の兵力を借りる

顔良と袁紹

 

勢力はないが、後漢朝廷から何らかの高い肩書きを得ていたり、或いは、元をたどれば、三公や皇族に連なるというような人なら、地元の有力豪族にお願いして兵を借りるという方法もあります。

 

当時の豪族は、前漢の武帝の時代の末期から経済的に没落して税が払えないので逃げ出した農民を多く領地内で囲いこみ、労働力や兵力として、奴隷のようにコキ使っていました。彼等の領地は荘園のようなもので、国の監査も入らないので、次第に、豪族は軍閥のようになっていたのです。

 

荊州牧の劉表(りゅうひょう)や益州牧の劉焉(りゅうえん)が、地元豪族との結びつきを強めてその兵力を活用して領地の経営を盤石にしたのはよく知られていますがこのような兵力なら、叛く可能性も薄く一から訓練する必要もなく安定して使用できるメリットがあります。

 

ただ、飽くまでも借りているだけなので、どこでも自由には使えず、また、豪族の機嫌を取る必要もあるので、その点で気苦労はあります。

兵を集める方法 5 強引に拉致する

李カク(李傕)と郭汜、郭、張済

 

方法としては最悪ですが、力にモノを言わせて拉致する方法もあります。大抵は、山賊の部類が味方が減ると城邑を襲って、その住民を無理やりに仲間にするなどの方法がありますが、李傕(りかく)郭汜(かくし)のように、長安内部で内戦をして住民を兵士として戦わせるケースもあります。

 

もちろん、士気は最低で、戦う気力に乏しく隙を見れば逃げようとするので逃亡兵の見せしめ処刑は絶えず絶対絶命の窮地に追い込まれない限りは、まともな戦力にはならないでしょう。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

もちろん、募兵したからいいと言うものでもなく、雇ったその日から、大将には、最低、兵の毎日の食を保障する義務がありました。今でも、成人男性は、日に3合の米を食べると言いますが、当時は、雑穀ですし死の恐怖もあるので、もっと食べたかも知れません。

 

食糧の支給が滞ると兵士の士気が落ち、悪ければ軍が崩壊、、もし、敵と対峙していれば、味方が反乱を起こして、食いぶちの為に大将の首を落として、敵に降伏するかも知れません。千人、万人の頭になるのは、本当に大変なのです。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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