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【シミルボン】真面目そうな夏侯惇がやってしまったロックな行動の理由とは

2017年2月15日


 

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シミルボン

 

※こちらの記事は「シミルボン」に配信されているコンテンツです。

 

兵士と禰衡

 

1800年も時代を隔てると、現在、普通である事が古代にはとんでもない

破廉恥な行動としてとらえられる事があります。

それは、普通に歴史書を読んでいても気づかないのですが、ある時、読書の履歴を

振り返ると、あーー!と感じる一種のアハ体験なのです。

今回は三国志でも、真面目な部類に入る曹操の重臣、夏侯惇(かこうとん)

やらかした超ロックな行動について紹介しましょう。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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西暦198年頃、陳留大守時代に夏侯惇やらかす

みんなで魏志倭人伝(夏侯惇、典偉、夏侯淵、許長、張遼、曹操)

 

西暦198年頃、夏侯惇は陳留大守でしたが、ある時に宴会があり、

計吏の衛臻(えいしん)というものに命じて

「君の奥さんを酒宴のメンバーにお披露目しなさい」

そのように命令した事がありました。

ところが衛臻は血相を変えて「末世の俗」つまり破廉恥な行為ですぞと拒否。

怒った夏侯惇は衛臻を拘束しましたが、後に釈放しました。

 

なんで?衛臻は激しく拒否したのか?

 

この逸話を読んでも、私達には疑問符しか浮かばないでしょう。

何で、衛臻は自分の奥さんをお披露目するのに激しい拒否を示すのか?

新婚ホヤホヤだったか、束縛が強かったのか?いずれにしても過剰反応に思えます。

そして、夏侯惇は、なんで、そんな理由で怒り拘束しようとしたのか・・

史実の夏侯惇は温厚な文官で、羽目を外す事もまずないのに、

何でこんな事でこんなに怒るのでしょう?

 

三国志の時代、妻を客の前に出すのは、とんでもなく破廉恥だった。

 

ちくま文庫から出ている高島俊男著 きらめく三国志79ページには

その意外な理由が書かれています。

 

引用――――――

これは今の日本人の観念では、なかなか想像しにくいことだが、

婦人を宴会に出す、つまり自分の妻を他の男の目にさらすというのは

破天荒な暴挙なのである。

こんにちの日本人の感覚にわかるように説明するならば、

例えば会社の同僚をおおぜい家に連れてきて酒盛りをして、

そこに全裸の奥さんをあいさつに出す、まあ大体そんな感じである。

引用終わりーーー

 

参考文献:三国志きらめく群像

著者: 高島 俊男 出版社: 筑摩書房

三国志の時代、自分の妻を他の男の前に出すというのは、

およそ考えられない非常識な事であったのです。

 

非常識を敢えてやった、曹丕のケース

曹丕

 

逆に、非常識だからこそ、敢えてやって旧秩序の破壊者を気取る人もいます。

その一人が曹操の後継者であり、初代の曹魏王朝の皇帝である曹丕(そうひ)です。

彼は、まだ太子であった頃、自分のとりまきの文士、いわゆる建安七子と宴会を開いて、

座が盛り上がった頃に、美人で有名な奥さんの甄氏(しんし)を呼び出しています。

 

それには、流石のロックな文士達も驚き、平伏して顔を上げませんでしたが

ただ一人、劉楨(りゅうてい)だけは平然と甄氏の顔を見ていました。

 

それを知った曹丕の親の曹操は激怒します、次の君主の妃の姿を見るとは

破廉恥だというのです、当時としては合理主義者の曹操でさえこうなので、

いかに、人前に自分の妻を見せるのがタブーだったか分かります。

 

こうして劉楨は、裁判に掛けられ死刑を宣告されかけますが、

曹丕が口添えしたので罪一等を減じて石工にさせられました。

ロックな事をした報いが石工というのも皮肉な話ですが、、

 

実は、労働を卑しみ文を事を綴る事を至上とする当時の文士にとり、

石工に落される事は死に勝る屈辱なのですが、流石に曹丕の奥さんを

ガン見するロックな劉楨は何とも思わず、刑期が明けるまで、

毎日、トンカントンカン、鑿をふるっていたそうです。

 

真面目人間、夏侯惇はロックな文士に憧れた

夏侯惇

 

さて、以上のような事を踏まえると、ただの宴会での悪ふざけだと思われる

夏侯惇の振る舞いには、真面目人間らしからぬ、ロックな文士に憧れる

やんちゃな部分があったかと思われるのです。

隻眼で盲夏侯(もう・かこう)とあだ名されたハッタリの効いた容貌の夏侯惇ですが、

実は、見た目が怖いだけで中身は文官、ロックな文士に憧れていたようで

酒の勢いでタブーを破ってやろうと思い立ったのでしょう。

 

それを、あっさりと衛臻に「破廉恥です」と釘を刺されて拒絶された。

 

夏侯惇の中では、

(わかってねーな、だからやるんだよ、俺は反権威なんだよ)

という気持ちと

(しまった、酔って俺らしからぬ事をした恥ずかしい)

という後悔の気持ちが、ない交ぜになってしまい、取りあえず自分に逆らった

衛臻を処分して体裁を整えたというのが正直な気持ちなのでしょう。

 

シミルボン

 

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