本願寺(ほんがんじ)。
戦国時代の当主は本願寺顕如(ほんがんじけんにょ)という人物で、
信長の野望シリーズをプレイしたことのある人なら必ず聞いたことのある武将です。
織田信長にとって最大の敵と行っても過言ではないほど強力で、
10年以上彼と敵対していた勢力です。
この本願寺がついに信長へ敵対する意思を表明し、
浅井・朝倉・三好家と手を結んで織田信長を苦しめることになります。
三好軍が来襲
三好家は畿内から四国の阿波(あわ)を中心としており大大名として君臨しておりました。
しかし織田信長が上洛を開始した際に畿内から追い出されてしまい、
四国へ戻って勢力の回復を図っておりました。
その後、勢力をある程度回復した三好家は再び四国から1万人ほどの軍勢で出陣し、
摂津(せっつ)の野田・福島砦に入ります。
信長は三好軍が野田・福島砦に駐屯したことを知ると急いで軍勢を集めて出陣。
野田・福島砦を包囲して攻撃を開始。
織田軍優勢でこの戦は推移することとなり、
織田軍の攻撃の激しさから両砦は信長に和睦の使者を派遣します。
信長は三好家から和睦の使者がやってきても和睦に応じることなく攻撃を継続。
こうして織田軍は両砦を陥落寸前にまで追い詰めることに成功します。
本願寺挙兵
織田軍は両砦を陥落寸前にまで追い詰めることに成功しますが、
思わぬところから大反撃を受けることになります。
それは野田・福島砦に近い位置に石山を中心に全国各地の門徒宗へ勢力を持っていた
本願寺です。
彼らは織田軍の陣営に攻撃を仕掛けて撃退。
織田軍は突然の攻撃に混乱しますが本願寺軍に反撃を行います。
しかしいたるところで本願寺軍の強力な攻撃を受けてしまい敗退。
信長はこのままではまずいと考え本願寺へ和睦の使者を送りますが、
拒否されてしまいます。
彼は将軍・足利義昭(あしかがよしあき)にお願いして和睦の使者を送りますが、
これも拒否されてしまいます。
彼は最終手段である朝廷を動かして本願寺と和睦しようと考え、
朝廷へ使者を送って本願寺との和睦の調停を行ってもらうように懇願しますが、
ある報告が信長の耳に入ると彼の表情が凍りついてしまいます。
浅井・朝倉連合軍が南下を開始
浅井・朝倉連合は信長が南で三好家と本願寺に手こずっていることを聞くと
すぐに軍勢を南に出陣させて織田家へ攻撃を開始。
両軍は織田家の宇和山(うさやまじょう)城を攻略して京都近辺へ侵入してきます。
信長はとりあえず和睦の調停を行うことを中止してもらいすぐに南から撤退して、
連合軍に備えることにします。
連合軍は信長が京都へ帰還してくると比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の麓へ
登って軍勢を駐屯させます。
信長は延暦寺をぐるりと包囲すると延暦寺へ「織田家に対して敵対しないでもらいたい。
織田家に敵対するのが嫌であれば、中立の姿勢をとってもらいたい」と懇願。
しかし延暦寺は彼の要請を無視して、麓に連合軍が駐屯していることも咎めませんでした。
信長は自体を打開できないまま比叡山で3ヶ月もの月日が流れることになり、
季節は冬になっておりました。
戦国史ライター黒田レンの独り事
南に本願寺・三好連合軍。
北に浅井・朝倉連合軍と比叡山延暦寺。
信長は浅井・朝倉連合軍が延暦寺に駐屯してしまったせいで、
岐阜へ帰ることもできなくなってしまいます。
さらに上記に記しておりませんが、
信長の初期の本拠地である尾張(おわり)に近い長島(ながしま)で、
本願寺が煽動した一向一揆(いっこういっき)が勃発。
本拠地岐阜に帰ることもできずに各地で信長の反対勢力が押し寄せてくる中、
信長はどうやってこの危機を乗り越えるのでしょうか。
ヒントは冬です。
参考文献 中公新書 信長と将軍義昭 谷口克広著など