幕末では坂本龍馬が一番人気のある歴史上の人物の一人で、これまでに何回か大河ドラマになっています。坂本龍馬は土佐藩の元藩士で、土佐藩の藩主は山内容堂です。山内容堂も雄藩として台頭した土佐藩の藩主で、山内容堂は伊達宗城・島津斉彬・松平春嶽ら四賢候として呼ばれるようになりました。
この記事では坂本龍馬と土佐藩の藩主である山内容堂との関係、龍馬の船中八策を受け入れた真相について取り上げます。
尊王志士だった坂本龍馬と佐幕派の山内容堂
藩主となった山内容堂(当時、豊信)は藩政改革に着手しました。有能な人材を登用しました。登用された人材の中では吉田東洋が有名です。吉田東洋は殖産興業・軍制改革・開国貿易など富国強兵を目的とした改革を進めます。容堂は四賢候の一人として幕政改革にも関わりました。13代将軍徳川家定は病弱で世継ぎが見込めないことから、将軍継嗣問題で容堂は松平春嶽・伊達宗城・島津斉彬らと徳川(一橋)慶喜を擁立しました。一方で、井伊直弼は血筋を重んじて徳川慶福を推しました。
徳川慶喜を推していた阿部正弘や島津斉彬が死亡しました。1858年に井伊直弼が大老となり、徳川慶福が時代将軍となることが決まりました。山内容堂は幕府に隠居願いを出しました。そして、井伊直弼による安政の大獄が始まりました。安政の大獄により、徳川慶喜をはじめ、松平春嶽・伊達宗城・山内容堂らに謹慎が命じられました。容堂が謹慎しているときに尊王攘夷派の運動が活発化し、容堂が抜擢した吉田東洋が土佐勤王党によって暗殺されました。
容堂が政治に復帰すると、土佐勤王党の弾圧を始めました。土佐勤王党の党首である武市半平太に切腹を命じました。
当時、坂本龍馬は土佐勤王党に加わっていましたが、弾圧される前に土佐藩を脱藩していたため処分を受けませんでした。
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自由奔放な龍馬をあえて放任していた山内容堂
土佐藩は初代藩主山内一豊の代から上士と下士という身分に分かれていました。上士は山内一豊寄りの武士で、下士は関ケ原の戦いで負けた長宗我部元親の頃から仕えていた武士です。土佐藩で有名な坂本龍馬は下士ですが、質屋など様々な商売で財を成した豪商で比較的裕福な家庭でした。江戸時代も末期になると、上士と下士の身分制度の枠組みから抜け出そうとする若者が現れます。
その若者とは坂本龍馬と中岡慎太郎らで土佐藩を脱藩しました。脱藩をすれば死罪になりますが、坂本龍馬と中岡慎太郎は土佐藩にとって重要人物だったことから死罪は免れました。
龍馬の「船中八策」を受け入れた山内容堂の真意
山内容堂は藩主を継いだ経緯で幕府に恩義を感じていたことから、公武合体を模索していました。幕府を倒そうとする薩長とは反対の立場でした。坂本龍馬は政治方針として船中八策を示しました。
船中八策とは公議政体論のもとで大政奉還・上下両院の設置による議会政治有能な人材の政治への登用・不平等条約の改定・憲法制定など8項目からなります。この龍馬の政治方針は15代将軍の徳川慶喜に大政奉還を建白することになりました。公武合体を模索していた山内容堂にとって徳川慶喜を新政府のトップにすることができそうなので、坂本龍馬の船中八策を受け入れることができたと考えられます。
龍馬死す!その後の山内容堂
1867年、大政奉還が成立して1か月後に暗殺されました。坂本龍馬が暗殺されたため、土佐藩は主導権を握ることができませんでした。小御所会議において薩長は徳川慶喜を排除する動きを見せます。この会議において大政奉還した徳川慶喜の官職である内大臣の辞職と徳川家領の減封が決定されました。山内容堂にとって無念の思いで苦渋を味わい、酒におぼれることになりました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は山内容堂と坂本龍馬との関係と大政奉還後の山内容堂について取り上げました。山内容堂と坂本龍馬は理想の上司と部下だったのかについて、脱藩したことに対する罪を免じていることから龍馬の才能を認めていたと考えられます。容堂はやけ酒の印象を受けますが、適材適所で人材を登用する才能があったのかもしれません。
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