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西郷慎吾(従道)はどんな人?大器だが能天気な西郷どんの弟

2018年6月16日


 

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西郷従道 幕末

 

西郷どんには、何名かの弟がいますが、西郷どんの死後も政界で活躍した人といえば、西郷従道(さいごうつぐみち)でしょう。彼は西郷どんに匹敵する器と称され、小西郷と呼ばれます。当初は兄と比べると勇敢ですが、とてもぼんやりした感じの人でした。しかし、西南戦争で兄を失い、翌年、政府の大黒柱大久保利通(おおくぼとしみち)が死ぬと従道は明治政府を引っ張る政治家としての役割を負い、いかにも大将らしい、大きな力量を発揮していくのです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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兄より過激な攘夷志士になった西郷慎吾

西郷隆盛像

 

西郷従道は、1843年天保十四年、西郷吉兵衛(さいごうきちべい)の三男として誕生します。兄である西郷隆盛(さいごうたかもり)とは、15歳も年が離れていました。

 

島津斉彬

 

幼名は竜介で、剣術は薬丸自顕流(やくまるじけんりゅう)、兵学を伊地知正治(いじちまさはる)に学び有村俊斎(ありむらしゅんさい)の推薦で島津斉彬(しまづなりあきら)の茶坊主として仕えます。茶坊主というと、お茶を立ててばかりいそうですが、薩摩藩の茶坊主は雑用係で貧しい武士に小遣い銭を与える仕事で従道も色々な事をやっていたようです。1861年、18歳で元服し本名を隆興(りゅうこう)、通称を慎吾(しんご)にすると、島津斉彬を信奉する精忠組(せいちゅうぐみ)に入ります。そこでは、大久保より急進派の攘夷主義者(じょういしゅぎしゃ)有馬新七(ありましんしち)の大きな影響を受け、従兄弟の大山巌(おおやまいわお)と共に過激な攘夷派志士になりました。

 

 

寺田屋事件で謹慎処分を受けるが薩英戦争で復権

島津久光

 

藩父、島津久光が実権を握り、上洛を計画すると京都にいた有馬新七等、精忠組は湧きたちました。久光が亡き、斉彬の遺志を継いで倒幕に立ち上がったと思ったのです。しかし、久光はより穏健な公武合体派で幕府寄りであり、有馬新七等の過激な尊皇攘夷派に決起を止めて藩に帰るように説得すべく、同じく精忠組の大久保一蔵(おおくぼいちぞう)海江田武次(かいえだたけじ)信義(のぶよし)奈良原喜左衛門(ならはらきざえもん)を派遣して、説得に当たりますが失敗しました。有馬新七は、すでに倒幕決起を諸藩の尊王攘夷派と約束しており、信義に賭けて中止できないと(かたく)なだったのです。

 

島津久光

 

久光は力づくで決起を止めるように厳命し、従わなければ殺せと言い含め手練れを選抜し、奈良原喜八郎、大山格之助(おおやまかくのすけ)道島五郎兵衛(みちしまごろべい)鈴木勇右衛門(すずきゆうえもん)鈴木昌之助(すずきまさのすけ)山口金之進(やまぐちかねのしん)江夏仲左衛門(えなつちゅうざえもん)森岡善助(もりおかぜんすけ)追補使(ついほし)が最後の説得の為に、伏見の寺田屋に急行します。こうして、1862年、5月21日に凄惨な同士討ち、寺田屋事件が発生します。有馬新七は説得を拒否して斬り合いになり斬殺されますが、二階にいた従道や大山巌は、奈良原喜左衛門の必死の説得で投降しました。決起派は6名が死に、2人が重傷を受けて切腹、追補使側も1名が死んでいます。

 

従道は、まだ若く扇動されたのみとして処分は帰藩の上で謹慎という軽い処分で済みます。しかし、薩英戦争(さつえい)が起こると、人手不足の為に許され、従道は西瓜売(すいかう)りに化けてイギリス艦隊に斬り込みを仕掛けるという奇策を出すなどして奮戦このお陰もあってか謹慎も解けて復権しました。

 

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こんにちは西洋

 

戊辰戦争では兄に従い各地を転戦

新政府の兵士

 

以後、従道は沖永良部(おきのえらぶ)から戻ってきた兄の部下として戊辰戦争(ぼしんせんそう)で転戦します。体を貫通するような銃創(じゅうそう)を受けたようですから、前線で指揮をしたのでしょう。戊辰戦争が終わると、従道は長州の山県有朋(やまがたありとも)と共に、軍制改革の為に欧州へと派遣されました。

 

明治3年には帰国し、兵部権大丞陸軍少将(ひょうぶごんのだいじょう・りくぐんしょうしょう)になります。この頃、薩摩に隠遁していた西郷が政府の要請で廃藩置県(はいはんちけん)を断行する為に、陸軍元帥(りくぐんげんすい)の肩書で東京に戻ってきました。まだ、所帯を持っていなかった従道は、荒れ果てた元の旗本屋敷で、兄と同居して暮らしていたようです。

 

質素を旨とした西郷隆盛は、陸軍元帥の豆腐のような厚さの給与袋も無造作に縁側に置いたりしていたので、従道はそのお金で遊郭に繰り出して豪遊したりしていたとの事です。しかし、清貧にして私事に拘らない兄との生活は従道に大きな影響を与え「おいは兄さんには及ばんわい」が従道の口癖になりました。

 

 

明治六年の政変で兄と運命を分つ

 

兄との同居生活は、征韓論(せいかんろん)を発端とする明治六年の政変で終りを告げます。大久保と袂を分った西郷、板垣退助(いたがきたいすけ)後藤象二郎(ごとうしょうじろう)江藤新平(えとうしんぺい)副島種臣(そえじまたねおみ)等は政府を離れて下野し、薩摩藩出身の官吏も大勢が西郷について鹿児島に帰ります。この時、西洋を視察していた従道は、兄の考えの無謀なるを見て自分の意志で東京に留まったと言われていますが、そうではなく従道も帰ろうとしましたが、西郷から「お前は残れ」と説得され帰るのを断念したと従道の妻の清子は証言しています。

 

この別れが兄弟の最期になります。西南戦争では、従道は征討に向かった陸軍卿山県有朋の後を守り、陸軍卿代理として東京に留まりました。西郷隆盛が城山に自決したと聞くと、黙って庭に出て、ずっと空を眺めていたと言われています。

 

仕事は部下に任せ責任は自分が負う便利屋大臣

 

兄が死んで8か月後、西郷を葬り政府で独裁的な権力を奮った大久保利通も紀尾井坂の変で凶刃に倒れて亡くなります。そこから、従道は参議に任命され、軍人ではなく政治家の道を歩む事になります。従道は便利屋大臣として、総理以外の何の大臣を頼まれてもホイホイ引き受け仕事は実務が出来る部下を信任して全てを任せ、責任だけを取りました。担当大臣として質問を受けても、

 

「私には分かりません、部下に出来るのがいるので説明に寄こしましょう」というばかりで平然としていたと言われます。このような形が最も成功したのが海軍で、有能だが我が強く上司と衝突してばかりの山本権兵衛(やまもとごんべい)に海軍の全てを任せたのです。

 

この頃の海軍は薩摩閥の巣窟で縁故主義がまかり通っていましたが、山本は従道の絶大な信任を背景に猛烈なリストラを断行して無能な将官を一掃し、機能的で能力主義の海軍を組織しました。この劇的な刷新が無ければ、日清戦争の黄海海戦(こうかいかいせん)や日露戦争の日本海海戦も勝利は覚束(おぼつか)なかったでしょう。

 

 

日本の近代化に足跡を残し明治35年に死去

 

陸軍と海軍でそれぞれ栄達を果たした従道ですが、再三の要請にも関わらず総理大臣の話だけは断り続けました。名誉を回復したとはいえ、逆臣の兄を持つ身で総理にはなれないというのです。同じく、従兄弟として日露戦争で日本を勝利に導いた大山巌も、総理だけは、頑なに拒否したと言われています。西郷隆盛と大久保利通亡き後、その後の明治政府を引き継いだ従道は、日本の近代化に大きな足跡を残し、日露戦争の直前、1902年、明治35年に胃癌(いがん)により、59歳でこの世を去りました。

 

西郷どん

 

 

幕末ライターkawausoの独り言

幕末ライターkawausoの独り言

 

西郷従道は馬主の顔も持ち、1875年には愛馬ミカンに騎乗して日本レース倶楽部で初勝利を挙げています。これは、レース出場が認められた日本人馬主としては初の事でした。

 

また、従道は派手な遊郭遊びでも有名な人であり、新橋芸者の桃太郎(本名ナカ)に随分と入れあげて熱心に通いついに妾にして五人の子供を産ませています。明治10年頃、西南戦争終結の前後に、従道は桃太郎に振られ大きなショックを受け「桃太郎には逃げられるし兄さんは亡くなるしもう政府はお仕舞いだ」と号泣していたという話があります。

 

馴染みの芸者に逃げられたのと、兄の死を同じ悲しみと表現しているのがいかにも鷹揚(おうよう)な従道らしいように感じますね。

 

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俺達尊攘派

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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