これまで歴史上の人物で、天才であるが策におぼれた人が数多くいます。この記事では、策におぼれてしまった人物として幕末の天才小栗忠順について取り上げます。
自分の見ていたものしか信じなかった
小栗忠順はアメリカの使節団に加わるなど開国派であるという印象を受けるかもしれませんが本当は攘夷派でした。敵を知るには敵の懐に進めという格言を実践していました。なぜ、小栗忠順は外国を見ることに積極的だったのか。小栗が勘定奉行に就任する前、外国奉行で外国人との交渉経験が豊富でした。その経験が実際に自分で見たものしか信じなかった理由として考えられます。
小栗が渡米したとき、遣米使節目付として、正使新見正興のポーハタン号で渡米しました。このときの功績について取り上げます。
フィラデルフィアでは通貨の交換比率の見直し交渉に挑みました。日米修好通商条約で定められた交換比率が不平等で、日本国内の経済が混乱していたため交換比率の見直しの交渉をしました。小栗は小判と金貨の分析実験をもとに主張の正しさを証明しましたが、比率の改定はできませんでした。しかし、この小栗の実験と交渉にたいしてアメリカの新聞は絶賛の記事を掲載しました。
自分を評価する者の意見しか受け入れなかった
1862年、小栗忠順は勘定奉行に就任し、財政再建に取り組みます。財政再建だけでなく、フランスからの支援を受け、軍事力も強化します。『小栗忠順とレオンロッシュ。最後までフランスが幕府を支援していた理由とは?』によれば、小栗は駐日フランス公使ロッシュの通訳と親しかった旧知の栗本鋤雲を通じて、フランスとのつながりを持ちました。このつながりを生かして、軍事強化のため44隻の艦船と大量の大砲や銃を購入しています。
当時のフランスはフランス革命後の復興途中でした。復興途中のフランスと幕政改革途中の江戸幕府と重なる部分があったことから、小栗はフランスと手を組むことを決めたと考えられます。
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嫌いな人間の意見は正論でも受け入れなかった
小栗忠順は三河以来の高級旗本の家に生まれました。石高は数千石にすぎませんでしたが、将軍直属の部下という点で諸大名と同格でした。小栗のプライドが高かったと考えられます。一方で、勝海舟は父旗本小普請組の勝小吉の家に生まれました。石高はわずか41石ですが、阿部正弘に提出した意見書が高く評価され、幕臣として取り立てられました。小栗は勝海舟を嫌っていたと言われています。その原因として小栗と勝の身分差であると考えられます。
自らの策におぼれる
薩長がつけこむところとなるため、小栗忠順は大政奉還に反対しました。1867年に薩摩藩邸の焼き討ちをします。この出来事は鳥羽伏見の戦火につながりました。小栗の期待通り、薩長との武力衝突に踏み切りましたが、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍は敗北しました。小栗は徹底抗戦を主張し、新政府軍を箱根・笛吹で迎え撃つことを主張しましたが、ただちに「御役御免」を申し渡され幕府から追放されました。小栗は知行がある栃木県に退くことを決意しました。
小栗の知行地は会津・越後にも通じていて、戦争の際、要害となる場所でした。小栗は栃木県に大砲一門・鉄砲二十挺および弾薬を運びこみ、600両を投じて居館を新築しました。現地の農民を徴発して訓練していたという記録が残っています。新政府軍はこの小栗の栃木県での動きをつかむと、徳川埋蔵金を持ち出して訓練しているのではないかと考え、小栗を逮捕して問い詰めました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は策におぼれた小栗忠順について取り上げました。『小栗忠順は大蔵大臣?幕末に現れた天才の功罪』によれば、小栗忠順は栃木県内で新政府軍に逮捕されますが、取り調べがほとんどないまま処刑されました。小栗の発案した優れた近代的手法は富国強兵で模倣せざるを得ない状況が予想されたため処刑したと考えられます。
小栗と同じく、江戸城で新政府軍に徹底抗戦を主張した榎本武揚は五稜郭の戦いに加わりますが逮捕されていません。小栗忠順との違いはどの点にあるのかについて注目したいと思います。
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