徳川慶喜が主導する公武合体構想がご破算になった大きな理由は、慶喜と薩摩藩父、島津久光の仲が非常に悪いという事でした。どちらも、頭脳明晰で誇り高いという点が似ていて譲歩が出来ないので事ある毎に対立し、仲裁役の松平春嶽がいくら宥めてもダメでした。
強硬な公武合体派だった久光が、西郷どんや大久保一蔵の意見に乗って倒幕に舵を切ったのは、慶喜と険悪だった事が大きな理由ですがでは、二人の仲はどうして悪くなったのでしょう。
最初から印象最悪だった島津久光
1862年3月、島津久光は幕府に無断で上洛を開始します。4月に京都に入り、雄藩と幕府による政権運営の為の種々の改革案を取りまとめ6月には江戸に入り、幕府に改革案を大半飲ませました。
これが文久の改革と呼ばれるものであり、この中で謹慎は解かれたものの無役でブラブラしていた一橋慶喜は、将軍後見職として中央政界に復帰します。これだけ見ると久光は慶喜に感謝されそうですが事実は正反対でした。格下の薩摩藩に朝廷からの政治改革案を飲まされた事で、幕臣たちはプライドを傷つけられ、激しい憎悪を感じたのです。もちろん、その中には御三家の水戸藩の出身である一橋慶喜もいました。
「なんだ!田舎もんが調子こきやがって、政治はそんなに甘くないぞ」
兄の斉彬と違い、中央では全く無名だった久光は、しきたりを知らない生意気な田舎大名とレッテルを貼られてしまったのです。西郷どんが地五郎(田舎者)と呼んで上洛は時期尚早と止めた反動が早くも、この時点で出てきてしまいました。
二人の関係を修復不能にした横浜鎖港問題
しかし、文久の改革の時のゴリ押しは、まだ少しの溝で済んでいました。二人の関係を決定的に悪くしたのは、その後の横浜鎖港問題です。当初、二人は協力して参預会議を開き、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城、松平容保などを加え、朝廷の方針を開国に修正した上で徐々に国を開こうという方針でまとまっていきます。
ところが開国で話を進めようと決めていた所に慶喜が「攘夷の為に横浜港を鎖港する」と仰天の話を持ち込んできたのです。その原因は孝明天皇が幕府に攘夷の決行を迫った為でした。
攘夷決行を条件に、和宮を家茂に降嫁させた幕府は無理だと分かっていても天皇の命令を無下に出来ないので、横浜を鎖港して攘夷のポーズを取り天皇と尊攘派の機嫌を取るという姑息な手段に出てきたのです。
もちろん、諸外国は幕府に猛抗議したので、幕府は鎖港を撤回しますがそれで諦めたわけではなく、使節団を欧州に派遣して横浜鎖港を交渉すると決めました。でも、でも、鎖港するのは横浜だけで函館と長崎は従来通り開くので日本のど真ん中の横浜港だけが閉じるという意味不明な話でした。
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真っすぐな久光と曲芸師の慶喜は激突
これには参預会議は紛糾しました。賢侯達は、口々に「意味ないじゃん」と鎖港の無謀を主張します。特に、激しく抗議したのが久光でした。
「そいはスジが違いもすじゃろう!横浜だけ閉じて函館と長崎は開くなどまっこち半端じゃそいで攘夷が貫徹できっとでごわすか?」久光は性格的に曲がった事が大嫌いな人なので、この中途半端な攘夷案に憤慨しました。開くなら開く、閉じるなら閉じるハッキリしろと言うのです。久光は使節を欧州に派遣するのも、どうせ失敗するし銭の無駄だからそれを攘夷の為の軍備に充てよと主張します。
しかし、慶喜は引き下がらず「函館と長崎は京都から遠いが横浜は近い、鎖港に意味はある」と主張そして、使節はもう出発したと聞きません。
「一橋殿の物言いは、わかいもはん!ちっともスジが通らん!」
頑固でスジが通った久光の言い分に賛同者が多くなると、慶喜は恐れ参預会議をぶち壊そうと画策し、中川宮邸の宴席でわざと泥酔して登場し一同を酒の勢いで罵るなどして参預会議は空中分解します。
以来、久光は慶喜が大嫌いになりました。口先だけで言う事がコロコロ変わる二枚舌、三枚舌の詐欺師だと完全に見限ってしまうのです。
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この後、久光は一橋慶喜が15代将軍に就任してから召集された公武合体路線の四侯会議にも出席しますが、最初から険悪な雰囲気終始にらみ合いでこちらも失敗し、久光は結局、西郷と大久保に政治を任せて薩摩に帰ってしまうのです。
幕末ライターkawausoの独り言
どうも横浜鎖港問題では、当初は慶喜も反対だったようです。しかし、幕府の老中達に説得されて賛成に回りました。慶喜からすれば、「幕府の事情も知らんで好き放題正論を言いやがって田舎もんが」という苦い思いがあったでしょうし、久光から見ると、「なんで中途半端な事をするのか?真面目にやれ」そう考えた節があります。
因みに、遣欧使節団は池田長発を団長にフランスに向かいましたが、フランスの近代文明に圧倒されて横浜鎖港など無理だと悟りそれ以後の予定を独断で切り上げて日本に帰ったそうです。
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