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岩崎弥太郎とはどんな人?世界の三菱を築き上げた一代の政商の生涯

2018年9月23日


 

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岩崎弥太郎

 

 

現在も続く巨大コンツェルン三菱(みつびし)、その創業者が土佐藩の郷士階級から身を興した岩崎弥太郎(いわさきやたろう)です。しかし、弥太郎の活躍は幕末ではなく、明治維新が成就してから明治初期、海運業を扱う政商として大成功を収めた事でした。9月26日にNHKで放送される海の明治維新を達成した岩崎弥太郎を紹介します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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1835年土佐藩に生まれる

 

岩崎弥太郎は、1835年1月9日、土佐国安芸郡井ノ口村一ノ宮の地下浪人(じげろうにん)岩崎弥次郎(いわさきやじろう)美和(みわ)の長男として誕生しました。地下浪人というのは、貧しい為に郷士株を人に譲って浪人になり地域に居ついた武士の事を指します。

 

土佐藩でも上士に差別される郷士よりもさらに一段身分が低いのが地下浪人でしたが、平民と違い、苗字帯刀(みょうじたいとう)は許されたので辛うじて武士の格式は保持しました。弥太郎は、伯母が嫁いだ岡本寧浦(おかもとねいほ)について学び、1854年に江戸詰めになった奥宮慥斎(おくのみやぞうさい)の従者として江戸に行き、昌平坂学問所教授安積艮斎(しょうへいさかがくもんしょきょうじゅあづみごんざい)見山塾(けんざんじゅく)に入塾を果たします。

 

 

牢獄で商人から算術を学ぶ

 

1855年、父親の弥次郎が酒の席で庄屋(しょうや)と喧嘩して投獄されたと聞いた弥太郎は、急いで帰国します。そして、父だけが投獄され庄屋は何の咎めもない事に憤慨(ふんがい)して奉行所に訴えますが奉行は庄屋の味方をしたので、「不正を(まか)り通すのが奉行所かよ」と訴え奉行所の壁に「官は賄賂(わいろ)をもってなり、獄は愛憎(あいぞう)によって決す」と大書したので自身も投獄されてしまいます。

 

しかし、この牢獄には商人が入牢していて弥太郎に算術や商法を教えてくれました。弥太郎は商人の世界にこうして興味を持つのです。

 

幕末のエンジニア達

 

 

吉田東洋の塾に入りスパイとして土佐勤王党を見張る

吉田東洋

 

牢獄から出た弥太郎は村を追放されるものの、当時、蟄居中(ちっきょちゅう)吉田東洋(よしだとうよう)が開いていた少林塾に入塾ここで後藤象二郎(ごとうしょうじろう)の知遇を得ます。そして、東洋が再登用されると、これに仕えて藩吏として長崎に派遣されました。

 

本来は清朝(しんちょう)の海外情勢を把握する為でしたが、イギリス人やオランダ人と通訳を介して丸山花街で豪遊して資金を使い果たします。暮らせなくなった弥太郎が土佐に戻ると無断帰国であった為にクビになりました。

 

 

その後、土佐勤王党(とさきんのうとう)を監視するスパイとして大坂で活動しますが、日に日に、勢いを増す尊皇攘夷派の力に嫌気がさして無断帰国しています。これは弥太郎には幸運で同時期にスパイ活動していた同志は岡田以蔵(おかだいぞう)に斬られています。

 

 

開成館主任となる

 

その後、尊王攘夷(そんのうじょうい)の嵐から距離をおいて郷里で農業にいそしみますが、1867年、土佐藩が長崎においた開成館主任として窓口に欧米商人から船舶や武器を輸入する仕事に従事します。この頃、脱藩していた坂本龍馬(さかもとりょうま)海援隊(かいえんたい)が土佐藩の外郭団体になります。弥太郎は海援隊の財務を担当するようになりますが、金銭にルーズな海援隊士の事は毛嫌いしていたようです。

 

 

明治維新後、弥太郎は海運事業を始める

明治維新後、弥太郎は海運事業を始める

 

明治維新後、政府は藩をなくすべく藩営(はんえい)の事業を廃止します。そこで土佐藩は、林有造(はやしゆうぞう)が藩とは別に海運業私商社として土佐開成社(とさかいせいしゃ)、後の九十九商会(つくもしょうかい)を立ち上げ、弥太郎は事業監督を担当しました。明治4年、廃藩置県(はいはんちけん)が行われて藩が消えると、弥太郎も土佐藩官職を失い九十九商社の経営者となります。

 

この九十九商会は、藩船3隻を払い下げられて、貨客運行を開始して利益をあげ鴻池(こうのいけ)銭屋(ぜにや)に抵当として抑えられた藩屋敷を買い戻しています。

 

 

インサイダー取引で巨万の富を築く弥太郎

インサイダー取引で巨万の富を築く弥太郎

 

明治政府は創設と同時に幕府が黙認していた大量の藩札(はんさつ)問題につきあたります。当座の財政難を切り抜ける為に各藩で幕府の許しを受けて出した藩札ですが、幕府の制限通りに刷っている藩はほとんどなく、額面の60%でしか通用しない藩札などというのは当たり前で、激しいインフレを誘発していました。

 

勝海舟

 

しかし、外国と貿易する上で額面がバラバラの藩札が大量にあるのは不便なので維新政府は勝海舟(かつかいしゅう)の「断じて藩札を引き受けるべき」という助言の下に藩札を買い上げて処分し統一通貨を発行する事にしました。

 

それを弥太郎は明治政府に出仕していた同藩の後藤象二郎から漏らされます。今で言えばインサイダー取引ですが、当時は違法かどうか不明です。重要情報を得た弥太郎は、10万両の資金を都合し市場に流通する藩札を買い漁り、藩札回収の命令と同時に、政府に額面買い取りをさせ巨万の富を得たのです。

 

 

明治政府と協働して外国資本を日本から追放する

 

明治七年、明治政府は琉球(りゅうきゅう)の所属問題を有利に進める為に、琉球の漂流民を台湾の先住民が殺害した事を口実に自国民保護を唱えて台湾に出兵します。ところが、ここで困った事が起こりました。

 

兵員の補給物資を運ぶ事業を英米の輸送会社に依頼しようとしたところが、英米の輸送会社は、局外中立(きょくがいちゅうりつ)を理由に輸送を拒否したのです。ならばと国内の輸送会社である日本国郵便汽船会社に依頼すると、戦争に従事している間に三菱汽船(みつびしきせん)に顧客を奪われる事を怖れて躊躇しました。

 

そこで、政府は逆に三菱に軍事輸送を依頼し13隻の外国汽船を委託し弥太郎は軍事輸送を見事にやりとげました。これにより翌年、本国郵便汽船会社は解散に追い込まれます。

 

明治政府は、英米資本に国内の海上運行を握らせ続ける事に危機感を覚えます。そして、大久保利通(おおくぼとしみち)大隈重信(おおくましげのぶ)は、三菱を積極的に支援して外国勢力を駆逐しようとします。そして有事の際に三菱の汽船を徴用する事を条件に、日本国郵便汽船会社の持ち船18隻を無償で供与しさらに特別助成金を出しました。

 

岩崎弥太郎は、日本の内外航路を独占していた欧米の汽船会社を駆逐する為に横浜ー上海航路(しゃんはいこうろ)を開き、アメリカのパシフィックメイルとの価格競争になりダンピング(利益度外視の安値攻勢)で、ついにPM社を降参させ買収します。

 

弥太郎はPM社の汽船4隻と関連施設を購入し、PM社の関連会社の東西汽船にも金を払い、両社が以後30年間、日本ー中国の沿岸航路に立ち入らない事を約束させました。次には、当時の世界最大の海運会社ペニンシュラ アンド オリエンタル スチーム ナビゲーション カンパニー(p&o)が香港、上海、横浜、大阪、東京に進出、新興三菱に反発する客を取り込み始めます。ここでも三菱は、過剰なダンピングで対抗、それでも足りず社員の給与を3分の2にカットし徹底した経費削減を行います、これには明治政府も協力して加担していたので、世界最大のp&oもさすがに音を上げ撤退したのです。

 

こうして、海外資本による日本の海上運輸の独占をいう危機を乗り越えた弥太郎は、運賃を高くして得た利益で社員にボーナスを支給しました。これが日本史上初めてのボーナスだと言われています。

 

 

西南戦争と最大のライバルとの闘い

西南戦争と最大のライバルとの闘い

 

三菱は政府の有事徴用に従い、明治10年の西南戦争では、船舶38隻を軍事輸送に注ぎ政府軍7万、弾薬、食料を円滑に輸送しました。西郷軍を圧倒した政府軍の物量は、三菱が用意したものだったのです。

 

戦争の勝利により三菱は、金一封、銀杯を天皇より下賜(かし)され、戦費総額の4156万円のうち三菱の御用船の収入は299万円、当期利益は93万円で当時の東京市の予算を上回りました。弥太郎は、戦争時に無償供与された船舶の代金として120万円を上納した上で、船を買い増しして所有船61隻とほぼ倍増させ、当時の日本の汽船総数の73%を占めます。

 

しかし、戦争で大成功した政商三菱への風当たりは次第に強くなります。農商務省大臣の西郷従道は「三菱は国の金で私腹を肥やす国賊」と弥太郎を非難しますが弥太郎はどこ吹く風で「国あっての三菱である、三菱が国賊なら全ての船舶を燃やしてもよいがそれで政府は大丈夫なのか?」と恫喝しています。

 

ところが、明治11年、三菱を引き立てていた内務卿の大久保利通が暗殺に倒れます。さらに大隈も政府を去り、後ろ盾を失った弥太郎はピンチに陥りました。

 

渋沢栄一

 

明治15年、反三菱の渋沢栄一(しぶさわえいいち)や三井財閥の益田孝(ますだたかし)、大倉財閥の大倉喜八郎(おおくらきはちろう)などが共同出資、共同運輸と設立して、国内シェア№1の三菱汽船に戦いを挑みます。この戦いも激しいダンピング競争になり、運賃は競争開始時の10分の1まで引き下げられしかも2年にもわたり続きました。岩崎弥太郎は、この戦いでも勝つ気満々でしたが、この頃には胃癌(いがん)が進行1885年に50歳で死去します。皮肉な事にダンピング競争に疲れた二社は、弥太郎の死を契機に和解に動き、合併して日本郵船になり、やがて三菱の中心的な役割を果たすのです。

 

 

幕末ライターkawausoの独り言

幕末ライターkawausoの独り言

 

三菱の商号であるスリーダイヤは、山内家の家紋である土佐(かしわ)と、岩崎家の家紋であった重ね三階菱を組み合わせて明治六年に制定しました。弥太郎は、典型的なモーレツワンマン社長で、声が大きく疲れ知らずで大食いで美食家、酒も大量に飲んだようです。

 

強引な手腕家で、必要と見れば金に糸目はつけませんでしたが、一度、相手に(おご)ってやれば最期、明治政府のどんな大官にも容赦せず、三菱に利益をもたらすように執拗(しつよう)に迫っていきました。こうして、利益を得ると、また手厚くもてなすようにしたので、三菱は弥太郎一代で急成長したのです。

 

弥太郎が、ただの儲け主義の我利我利亡者(がりがりもうじゃ)でもない事は、日本の海上運輸を独占しようとする欧米の汽船会社に敢然と挑んだ面で明らかでナショナリズムを持った人でもありました。

 

胃癌が進行した弥太郎は激痛に苦しみますが、その中でも、細々と経営の指示を出し、死ぬときには、自分を手厚く看病してくれた医師団に深々と一礼してから事切れたそうで、商人になっても、武士の一分を忘れなかった生涯と言えます。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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