明治政府初期の国際裁判について、
江戸幕府からの不平等条約で領事裁判権(治外法権)を認めている状態から
改善されなかったためかなり不利だったという印象を受けると思います。
実際に、明治政府は1886年のノルマントン号事件については
外交失策として国民から反発を受けました。
今回は、1872年のマリア・ルス号事件について取り上げます。
マリア=ルス号事件は海外を相手にした明治政府最初の国際裁判で、
領事裁判権(治外法権)を認めている状態で日本が勝利しました。
この記事では、
マリア・ルス号事件の概要と日本が勝利に至るまでの過程について取り上げます。
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マリア・ルス号事件とは?
マリア=ルス号はペルー船籍の船でした。
1872年にマカオからペルーに向かう途中で、
船の修理のために横浜港に寄港しました。
マリア=ルス号が事件になったきっかけは、
船に乗っていた清国人が脱走したことでした。
なぜ清国人が脱走したことが問題になったのでしょうか。
当時、清国人はインド人とともに奴隷として欧米諸国や中南米に連行されていました。
インド人の奴隷のことを「クーリー」と呼ばれ、
中国語では「苦力」と表記されていました。
清国人が横浜港でマリア=ルス号から脱走し、
イギリス船に助けを求めました。
脱走した清国人は奴隷として連行され、
マリア=ルス号内で虐待されたとイギリス船の船員に助けを求めました。
このことがきっかけで事件になり、後に国際裁判に発展しました。
日本が国際裁判に勝利するまで
イギリス人駐日公使がマリア=ルス号が奴隷を輸送していると判断すると、
日本政府に対して横浜港に寄港している清国人を救助するように要請しました。
このイギリスからの要請を受け、
当時外務卿だった副島種臣は
清国人を救助するように当時の神奈川県令に指示しました。
横浜でマリア=ルス号のペルー人船長は訴追され、
裁判になりました。
事件として発覚するとマリア=ルス号は出港禁止されていましたが、
1回目の裁判では清国人を解放することで
出向禁止を解除するという判決になりました。
マリア=ルス号の船長は納得できず、
2回目の裁判になりましたが、
2回目の裁判でも船長の訴えは認められませんでした。
船長の訴えが退けられた要因として、
清国人の輸送は奴隷契約に基づくものであり、
人道に反していたと判断したことが挙げられます。
マリア=ルス号事件は横浜での裁判では決着しませんでした。
ペルー政府が日本に対して損害賠償を求めて裁判を起こします。
このペルー政府による損害賠償を求めた裁判について、
日本とペルーが同意した上でロシアによる国際仲裁裁判が開かれました。
この国際仲裁裁判において、
日本が奴隷を解放したことについて国際法にも条約にも違反せず、
妥当な措置であるという判決が出ました。
ペルーは国際仲裁裁判でも敗訴し、
日本政府の勝利に終わりました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は、明治政府最初の国際裁判マリア=ルス号事件について取り上げました。
この裁判は奴隷解放裁判として有名になりました。
また、ペルー側の弁護士が日本の娼婦について意見書を述べたことがきっかけで、
日本における娼婦の解放令も出されました。
この裁判は奴隷解放裁判だけでなく、
日本において人権を意識させるきっかけにもなりました。
マリア=ルス号事件はイギリスによる救助要請で
清国人の奴隷の実態が明らかになりました。
イギリスが1833年に法律で奴隷を禁止していたことや
日本がイギリスに対して領事裁判権(治外法権)を認めていたことで、
明治政府が清国人の奴隷の救助をしたと考えられます。
仮に、日本がイギリスと対等な条約を結んでいる状況において
マリア=ルス号事件が起こった場合、
日本はどのような対応をとったのか気になります。
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