広~い中国。地域によって言語も文化もさまざまです。
テレビも自動車も冷蔵庫もなかった三国時代、人々は見たことも食べたこともない食べ物とどう向きあっていたのでしょうか。
三国志の魏の学者・邯鄲淳が編纂したと言われている笑い話集『笑林』には、南北の食文化の違いを扱った笑い話がいくつかあります。
そこには呉の人の北方人に対するコンプレックスが現れており、なかなか興味深いです。
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たけのこを見たことがなかった北方人
竹は暖かい土地によく生える植物です。
『笑林』には、たけのこを見たことのない人が南方の呉に行った話があります。
漢の人で呉に行った人がいた。呉の人がたけのこ料理を出すと、漢の人はこう尋ねた。
「これは何ですか」
呉の人はこう答えた。
「竹です」
漢の人は地元に帰ってから竹製の敷物を煮てみたが、煮えなかった。そこで妻にこう言った。
「呉の人は油断がならない。こんなだまし方をするなんて」
呉の人は嘘ついてないよー、竹も土から顔を出したばっかりの時なら煮えるよー、って教えてあげたいですね。
乳製品が口に合わなかった南方人
三国志の時代には、遊牧民との交流の機会が多い北方では乳製品というものが知られており、珍味として認識されていましたが、
南方の人はあまり知らなかったもようです。
『笑林』には、呉の人が乳製品を食べて死を覚悟した話があります。
呉の人が洛陽へ行った時、もてなしを受けた。
その料理の中に酪蘇(乳製品)があった。
呉の人はそれが何だか分からなかったが、むりやり食べた。
帰ってから吐き、具合が悪くなってしまった。そこで息子にこう言った。
「北方の野蛮人とともに死ぬことは恨むまい。しかしお前はよく気をつけるのだぞ」
食べたことのない乳製品が体にこたえたのでしょうか。
なにこれ気持ち悪―い、と思いながら食べたから、気持ちの問題でよけいに具合が悪くなったのかもしれませんね。
一服盛られたと思って死を覚悟し、息子に遺言まで……ぷぷぷ。
魏の邯鄲淳が集めた話じゃないのかも?
『笑林』は原本が残っておらず、現在読むことができるのは他の書物に引用されていた部分です。
一つ目のたけのこの話は『筍譜』下と『紺珠集』巻十一にあり、それらでは文頭が「陸雲笑林云(陸雲の笑林に云う)」から書き始められています。
陸雲は、三国志の呉のセレブ・陸遜の孫です。
『笑林』は魏の邯鄲淳の作だとされていますが、陸雲の笑林というものもあったのでしょうかね……?
『晋書』によれば陸雲は笑い上戸で、船の上で笑い転げて水に落っこちたことがあるそうですから、笑い話集くらい作りそうな気がします。
そうだとすれば、たけのこの話には、“北方の連中はたけのこも知らねえでやんの。ぷぷぷ”と小馬鹿にするようなニュアンスがあるのかもしれません。
陸雲と兄の陸機は若くて多感な頃に呉が北方の晋に併合され、なんだい北の田舎者め、呉のほうが文化的には優れているんじゃい、
とつっぱっていたことで有名です。
(陸機は斉の出身のブサメン詩人・左思が三都賦を書いていることを知り、北の田舎者が作る三都賦なんか屑紙になって酒壺の蓋になるだけさ、と
小馬鹿にしていました)
乳製品の話にみえる北方人への蔑視
乳製品の話は『藝文類聚』と『太平御覧』にある話で、「笑林曰」から始まっています。
こちらは魏の邯鄲淳の集めた話なんだろうなぁと思いますが、この話からも呉の人が北方人に対して差別意識を持っていたことが見てとれます。
それは地の文ではなくて、呉の人のせりふの中に見られます。
乳製品を食べて具合が悪くなった人が、洛陽の人のことを「北方の野蛮人」と呼んでいますよね。(原文では「傖人」)
文化も食べ物も違うから相手のことが野蛮に見えたというだけではなく、呉が政治的にも軍事的にも常に北方からの圧力を感じていたことが、
北方人への憎悪につながっていたのでしょう。
北方の戦乱で故郷を捨てて呉に流れて来た知識人たちは、北国にあった優れた文化は今ではすっかり呉にあるんじゃ、あっちに残っているのはカスだけ
じゃ、みたいな顔をしていばっていたでしょうから、その風潮も北方に対する蔑視につながっていたことでしょう。
三国志ライター よかミカンの独り言
よその土地で見知らぬ食べ物に接して失敗しちゃった、という何気ない笑い話なのですが、当時の世相とからめて見ると、人々の考え方が垣間見えて
面白いですよね。
三国時代の文化に興味のある方でしたら、きっと人一倍『笑林』を楽しめると思います!
参考文献:
竹田晃・黒田真美子 編『中国古典小説選12 笑林・笑賛・笑府他<歴代笑話>』明治書院 2008年11月10日
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