皆さんの諸葛亮のイメージに、帽子を被り、羽扇を持ち、そして四輪車に乗って座っているイメージがありませんか?多くの人が「諸葛亮」と言われるとこのイメージが湧くと思います。
しかしここで気になるのが諸葛亮の腰かけている四輪車、これは一体何なのか?
当時本当にあったのか?ただの創作なのか?今回はこの「四輪車」について解説をしていきたいと思います。
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諸葛亮のイメージにある四輪車
まずは少しおさらいをしましょう。
前述したように諸葛亮のイメージと言えば、白い羽織のような着物、丸まったような帽子を被って、トレードマークのような白い羽扇を手に持っている。そして車椅子のような四輪車に腰かけている姿……それが諸葛亮のイメージですよね。
ただしこの諸葛亮のイメージは、あくまで演義によって作られたイメージ像なのです。そこでこのイメージが生まれた経緯と考えられている、初学記から紐解いていきましょう。
四輪車のイメージはどこから来た?
さて初学記の語林にて、諸葛亮の描写として以下のように書かれています。「諸葛亮は白い輿に乗って、頭巾を被り、羽扇を手にして軍の指揮をとっていた」。
頭巾と羽扇に関しては皆さんのイメージとそこまで差異はありません。ですが白い輿と四輪車のイメージはちょっと結びつきませんよね。しかしこの白い輿のイメージを更に膨らませて描写したのが、三国志演義なのです。
三国志演義ではこの描写を踏まえた上で、頭巾はちょっと変わった頭巾になり、白い輿の代わりに四輪車に乗って軍を指揮する姿が描かれるようになりました。つまり四輪車のイメージは三国志演義の創作なのです。でもここで少し気になるのが「四輪車」はどこから来たのか?ということ。そこで四輪車に関して少しばかり調べてみることにしました。
「四輪車」は想像力が生み出したものなのか?
さて三国志演義は16世紀に中国で書かれたものです。ここで諸葛亮が四輪車に乗って指揮をとるというシーンが描かれます。その一方で、1669年の著書の中で日本を描いた絵があります。
これはオランダ人作家アルノルドゥス・モンタヌスによって描かれたものなのですが、ここで女性が諸葛亮と似たような四輪車、というか手押し車のようなものに乗っている絵があるのです。
この女性は「タイコーサマ」という女性なので、それなりの地位のある女性だったのでしょう。
ここのポイントはこの時期に日本に手押し車、四輪車があり、それが欧州にも伝わったということ。
三国志演義は16世紀のものですから日本から伝わったのか、それとも日本に伝わってきたのかは不明ですが、少なくともこの時期に存在しているなら三国志演義の時代に既に似たようなものはあったのでは?という仮説が立てられます。
諸葛亮の四輪車は三国志演義による創作です。しかしその四輪車のベースとなったものは既にあったと思うと、それに乗っている諸葛亮は当時の人から見ても地位の高い人物であると思われていたのではないでしょうか。
もう一つの四輪車は諸葛亮の発明品
因みにもう一つ、四輪車のイメージの元になったのではないかと言われるものがあります。それは諸葛亮が発明したと言われる「木牛」と言われる、今で言う手押し車です。これは物資の運搬に使われたものなので、人が乗る四輪車というよりは猫車、手押し車に近いものだったのでしょう。
そういった発明品を生み出す力のある諸葛亮だったからこそ、四輪車というその頃はまだ比較的新しい乗り物に乗せて指揮をする、革命的な人物として描かれたのかもしれませんね。
三国志ライター センの独り言
諸葛亮と四輪車について、いかがだったでしょうか。
諸葛亮の四輪車はあくまで演義の創作……と思ってそれ以上に調べてこなかったのですが、今回調べてみるとベースになったようなものが既にあったこと、そしてそれに乗せた人物を描いた想像力があったことにもまた驚きです。
三国志は歴史、三国志演義はあくまで創作のお話……なんて言わずに、どうしてそういった描写が生まれたのか調べてみると、より一層歴史の流れや繋がりが楽しめます。
だから皆さんも三国志演義の創作描写から、何か新しい繋がりを見つけてみて下さいね。
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