その昔、三国志演義を読んでいて最も驚いたのが張飛の最期です。本当に唐突に張飛の最期はやってきますよね。
しかしこの張飛の最期、正史とは少し違うことは皆さんご存知でしょうか?
それも正史の張飛の最期はなんとも謎が残る最期なのです。今回はそんな張飛の最期について、少し考察していきたいと思います。
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三国志演義の張飛の最期
三国志演義の張飛の方から話しますが、こちらでは張飛は部下の謀反による最期を迎えます。
と、言うのもやや自業自得に近く、配下に無茶ぶりをして、命令の延期をして欲しいと頼みに来た部下を酒に酔って棒で殴りつけ、命令を達成できなければ斬首、という傍若無人さから、部下に背かれてしまうという最期です。
関羽の敵討ち、何より関羽が討たれたことに怒り心頭だったとはいえ、張飛の悪い癖が出てしまったと言えるでしょう。しかしこちらはもちろん三国志演義の最期、では正史の張飛の最期はどうだったのでしょうか。
正史三国志、張飛の最期は……
正史三国志、こちらの張飛の最期もまた部下に暗殺されたとなっています。
が、この正史の最期はとてもあっさり。
本当にいきなりの最期です。というのも三国志演義のように最期に至るまでの描写がある訳ではなく、上奏文が届いたと聞くなり劉備が「張飛が死んだ!」と嘆きだします。あまりにいきなりすぎて同情とか自業自得だとか思う暇もない、呆気なさすぎる最期。
張飛という武将のラストとは思えないほど、あっさりとした描写のみで終わってしまうのです。
三国志演義での演出
ただし正史でも張飛は苛烈な部分があったようで、部下の扱いについて劉備が日頃から諫めていた、とあります。
「罰を与えた者を傍に置くな」などの小言を言われている、というシーンがあるように、張飛は正史ではとても罰則に厳しい人物だったようです。
三国志演義ではこのエピソードを、あまりにもあっさりしたラストにくっつけて演出したのではないか、という訳ですね。
ただし実際に張飛は三国志演義の最期のように罰を与えたというような訳ではないようで、正史ではどうして暗殺されたのかは分からず、普段から厳しかったからいよいよ背かれたのでは……と想像するしかなくなっています。
張飛のイメージが変わる?
ここで少し考察してみたいのが、張飛のイメージです。張飛といえば乱暴で脳筋、そんなイメージがないでしょうか?
しかし張飛はしっかりとした軍勢指揮の能力も持っています。益州、漢中でも張飛は数万の軍を率いて戦っています。軍を率いて戦うというのは個人の武勇だけでは務まりません。命令を出し、軍を動かし、状況によって動いていく現場を冷静に判断できるだけの知力も要求されるのです。
つまり張飛は武勇一辺倒ではなく、智勇兼備の武将だったのではないでしょうか?
また部下に厳しいというのは別の見方をすれば、規律に厳格であったとも取れます。もちろん劉備の言からすればそれは行き過ぎた厳格さではあったのだろうと思いますが、智勇兼備で規律に厳格……そう見ると何だか、張飛のイメージが変わってきますね。
恐れられていたからこその「謀反」でなく「暗殺」はあり得るかと思います。
ただしこのイメージ像、どちらかというと張飛のイメージよりも関羽のイメージに近くあると思うんですよね。だから三国志演義では張飛のイメージをガラリと最初から最期まで変えたのではないかな、と。
そうしたからこそ張飛という人物のイメージは三国志演義を読んだ人たちには根深く残るほどの印象を残せたのではないかと思いました。
三国志ライター センのひとりごと
今回は張飛の正史でのあっさりした最期、そしてそれを踏まえてちょっと今までとは違う張飛のイメージを考察してみました。この張飛のイメージ像は三国志演義のイメージ像とはかけ離れていると思いますが、厳格で寡黙、そんな張飛のイメージも面白いと思います。
個人的には何度も失敗して成長する三国志演義の張飛のイメージ像、かなり好きなのですが……それでもそんな新しい張飛のイメージ、正史のあっさりした最期と結びつくのではと考えましたが、皆さんはどうでしょうか?
参考文献:蜀書張飛伝 先主伝
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