桃園三兄弟として、死ぬ時は一緒と誓った、劉備(りゅうび)、関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)。しかし、それは、三国志演義の固定観念に過ぎず、実は、関羽は劉備の部下ではなく、同盟者であり、一人の群雄だったという説があるのです。蜀書、関羽伝を追いながら、その真偽を確認してみましょう。
この記事の目次
疑惑1 主従と言いながら、別行動が多い関羽
関羽は、河東解(かいとうかい)の人でしたが、トラブルから人を殺して涿(たく)郡に出奔します。そこで、黄巾賊討伐の義兵を集めていた劉備に知りあうのです。劉備は、関羽と張飛を厚遇し、共にベッドで寝る程でしたが、二人は、衆人の前では、君臣の別を貫き、一日中、劉備の近くに立ち護衛していたそうです。
こうして見ると、初期の関羽は劉備を主として見ていたようです。
しかし、それから数年後、劉備が公孫瓚(こうそんさん)の配下として、袁紹(えんしょう)攻撃で手柄を立てて、平原の相になると、劉備は、関羽と張飛を別府司馬(べっぷしば)に任命して、別々の部曲(ぶきょく)を与えたと書いてあります。
部曲とは、私兵の事なので、劉備は、かなり早い段階から、関羽を独立した別働隊として見ていたようです。もっとも、この時点では張飛にも部曲を率いさせていますから、関羽が、独立志向であったとは、まだ言えません。
疑惑2 劉備に代わり、徐州を統治している関羽
西暦200年、曹操暗殺計画に加担した劉備は計画がバレると、徐州に進軍し、刺史の車冑(しゃちゅう)を殺して、関羽に徐州牧を代行させ、自身は小沛に駐屯して、曹操の攻撃に備えます。さて、ここでも関羽は、別行動で徐州の州都下邳(かひ)に入り、その行政を担当しています。何故、劉備は、関羽と行動を共にしないで役割分担しているのでしょうか?
ここに、関羽が劉備の配下ではなく同盟者にランクアップした、様子が見て取れないでしょうか?
ここでの戦は曹操の勝利に終わり、劉備は泣きながら袁紹を頼って北に向かって敗走しますが、関羽は逃げられず捕まります。
疑惑3 曹操に捕まっても自殺していない・・
さて、演義では、この時、関羽は劉備の妻子を保護していて、その為に自殺を思いとどまるとされていますが、蜀書の関羽伝には、劉備の妻子を保護したというような描写は一切ありません。
ただ、関羽が劉備に深い恩義を感じていて、早く戻りたがっており、長く自分の下に留まる意志がないのを張遼(ちょうりょう)から聞いた曹操(そうそう)が残念に思ったと書かれているだけです。
やや、紛らわしいですが、関羽が自害しないのは、劉備の同盟者であり部下ではないからではないでしょうか?
そして、演義では、忠臣関羽が自殺していない理由づけを探し、関羽が劉備の妻子を保護していたから・・という架空の理由をつけて、関羽が自殺しなかった不思議を正当化したのでは?
疑惑4 曹操から送られた官位を辞退していない・・
関羽は、袁紹との戦いで顔良(がんりょう)を斬り、漢寿亭侯(かんじゅていこう)に任命されていますが、これを辞退した形跡がありませんし、また、捕らわれた直後には偏将軍に、任命されていますが、これも拒否してはいません。
曹操は、漢の丞相であり、その官職は献帝(けんてい)から授けられるのだから、問題はないと言えはしますが、もし、関羽が劉備の家臣なら、それでも二君に仕える事になり、信義には反するでしょう。関羽は、劉備の同盟者でも部下ではないので、忠臣は二君に仕えずというカテゴリには入っておらず、自殺など思いもよらなかった。そうは、受け取れないでしょうか?
また、関羽が曹操から多額の贈物を貰っても封をして返却した事を関羽の義理堅さと取ったりしますが、これから長い旅をしようという時に、かさばるような大きな贈物は、有難迷惑ではないでしょうか?
持っていける小物だけは持ち出し、そうでないものは封印して、返してしまい、旅の荷物を軽くしたとも取れます。
【次のページに続きます】