楽市楽座と言えば、長ら織田信長が始めた自由な商売を保障する政策と説明されてきました。
実際には信長以前に、南近江の六角氏が1549年に楽市・楽座令を出したのが記録に残る最初であるようです。それはそれとして、戦国時代に打ち出された楽市・楽座はその後どうなったのでしょう?
江戸時代にも継続したのでしょうか?
楽市・楽座その後ズバリ!
では、楽市・楽座のその後まで2000文字もちんたら読んでられないよ!というせっかちな人の為に、楽市・楽座がどうなったかをズバリ説明しましょう。
1 | 楽市・楽座で競争が自由化し新規参入者が増加 |
2 | 小さな商店が乱立し商人の力が弱くなる |
3 | 生産者から商品を取りまとめ卸す問屋の発言力が増す |
4 | 領主と関係を持つ御用商人が台頭し他の商人を圧迫 |
5 | 御用商人や問屋が市場を支配し楽市・楽座崩壊 |
6 | 問屋や御用商人が株仲間を組織 |
7 | 江戸幕府、流通を牛耳られる事を嫌い株仲間を弾圧 |
8 | 享保の改革で方針転換。株仲間や御用商人に
流通を任せ上納金を取る形式を採用。 |
以上の出来事を経て、楽市・楽座は消滅、幕府公認の株仲間や御用商人による市場独占へと進みます。以後は、楽市・楽座についてじっくり読んでみたいという人向けに少し詳しく説明します。
楽市・楽座の動機
楽市・楽座が実施される前、日本の市場は座と呼ばれる商工業者や芸能者に牛耳られていました。座は平安時代頃には誕生し、貴族や寺社に金銭を支払うかわりに市や特定地域の営業権や販売権、流通路を独占し座に属さない新規商人を排除して経済利権を保持していました。
そして座の後ろ盾になっていた貴族や寺社は「本所」と呼ばれ、比叡山延暦寺や大和興福寺が有力な本所となって多くの座を支配下に置いていました。もちろん、座のような勢力は新興の戦国大名に対しても容易に従わず本所に忠実でした。
はい、これで分りますね。織田信長のような戦国大名は領国の経済を支配する為に、寺社や貴族と結びついた座が邪魔でした。
そこで、座の特権を排除して新規商人の商売を認め座を弱体化させ、ひいては寺社や貴族の資金源を断とうとしたのです。別に、座に入っていない商人が可哀想じゃないかーで始めた政策ではないんですね。ただ、座が不当に利益を上げていた枠組みが破壊されたので、商品の値段は低下し、庶民の経済活動が活発になったのは事実でした。楽市・楽座は全国に波及、各地で座は没落していき、商業は一括して戦国大名の管理下に置かれるようになったのです。
楽市・楽座の弊害
楽市・楽座により座の経済独占が崩壊すると、新規参入が進んで経済が活性化し領地が発展しました。農民や百姓が豊かになり、他の土地から楽市・楽座特区に人が流れ込んで人口も増えます。
人口が増えれば動員できる兵力も増加していきました。それは、逆に楽市・楽座を導入できない大名の土地で人口が減り、戦わずして敵を弱らせる事に繋がります。物流の拡大は街道の整備を促しますが、織田信長は関所の撤廃も行っていました。信長の中で経済政策は全て繋がっており、楽市・楽座の成功と関所撤廃が織田信長を全国区の戦国大名に押し上げたのです。
しかし、楽市・楽座が全国に波及するとメリットよりもデメリットが目立ってきました。市場に新規参入者が激増した事で過当競争により、没落する商人も多く出現したのです。こうして、市場には小さな商人が乱立するようになりました。
座に代わる問屋や御用商人が台頭
商人の力が弱まると、今度は商人に商品を卸す問屋の発言力が増していきます。これまでは、売れる相手が限られていたので、商品を安く買いたたかれていた問屋ですが自由競争になり、誰にでも商品を卸せるようになると、より高く商品を買ってくれる商人に優先的に商品を卸せるようになります。
商人は立場が弱くなり問屋から高い品物を買い、少ない利益で細々と商売を続ける他なくなりました。一方で、問屋ではなく領主に接近して個人的な信頼関係を結び、市場の支配権を認められる御用商人という存在も現れます。
結局、楽市・楽座で規制緩和が進んだ結果、過当競争で商人が没落して小規模になり、かつて撤廃した座のような特権の持ち主である問屋と御用商人が台頭したのです。市場と言うのはなかなか難しいもんですね。
幕府公認の地位を得る株仲間と御用商人
やがて問屋は過当競争による共倒れを防ぐ為に一種の座を作り株式を所有して株仲間というカルテルを組織します。初期の株仲間は私的な集団で、江戸幕府は楽市・楽座を継承した経緯から株仲間が流通組織を支配して、幕府の脅威になる事を警戒し慶安元年(1648年)から寛文10年(1670年)にかけて6回も禁令を出すなど株仲間を規制しました。
しかし、武士に経済は分からず享保の改革時には商業の統制を図るのに株仲間を公認し、幕府のコントロール下に置き販売独占権を与える代わりに上納金を納めさせると方針を180度転換しました。一方、御用商人は、江戸幕府の開府に従い、商業、貿易、鉱山、林業、輸送などで幕府の都市支配に協力するようになります。
江戸も中期になると、従来の御用商人が没落するのと同時に、新興の越後屋や鴻池家が台頭して幕府御用の為替を取り扱ったり、蔵米の売却を担当した札差や金銀の両替を行う両替商が御用商人として重視されるようになりました。
御用商人は幕府だけでなく、大名諸藩や旗本にも置かれ、中には功績から苗字帯刀を許され、扶持米や屋敷地を与えられるなど、武士に準じた身分と経済的特権を与えられる者も出現します。結局、江戸時代には自由な経済を目指した楽市・楽座は否定され、座の亜流である株仲間や御用商人が市場を独占するようになったのです。
日本史ライターkawausoの独り言
楽市・楽座は座という既得権益で寺社や貴族と結びついて新興の大名に従わない商人から特権を奪い、新規参入を認めて商業を戦国大名が管理下に置くために開始されました。
しかし、楽市・楽座が全国に波及すると、過当競争で商人が淘汰され零細商人と、発言力を強めた問屋、権力者と結びついて独占販売権を握る御用商人が出現します。こうして江戸時代になると、幕府は楽市・楽座を否定し株仲間・御用商人に市場を支配させて、上納金を取る体制に変化します。
つまり、楽市楽座以前の座が、寺社や貴族と結びついたように、江戸時代の株仲間や御用商人は幕府と結びついて市場を独占支配するようになるのです。
ただ、幕府は寺社や貴族ほど市場に無関心ではなく、新規参入を一定数認めるように株仲間や御用商人に圧力を掛けるなど、一定の市場の公平性の確保に尽力している点も忘れてはならないでしょう。
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