衛瓘は鍾会や鄧艾、姜維というような鍾会の乱の首謀者や関係者に比較すると地味です。
しかし、衛瓘は鄧艾を逮捕して処刑し、鍾会の反乱にも同調せずに城外の魏兵を指揮して、鍾会を殺害し、反乱を未遂に終わらせるなど非常に重要な役割を果たしていました。
今回は、なんだかんだで鍾会の乱で一番得をした男、衛瓘について解説しましょう。
衛瓘の略歴
衛瓘は10歳で父を亡くしていましたが、母親への孝行を尽くす様は人並み外れていました。節操が堅くて物静かであり、頭脳明晰で清く公平であり実のある名声を持っていると称えられ西暦240年に尚書郎に任じられます。
その頃、曹爽一派が政権を掌握し、人心はこぞって曹爽一派の機嫌を取り交流を持とうとしましたが、衛瓘は彼らと親しくしなかったので硬骨漢の傅嘏という人物に大いに重んじられたそうです。
傅嘏は鍾会と仲が良かったので、衛瓘もその線から鍾会と交友を持ったのかも知れません。西暦260年曹奐が即位すると、衛カンは侍中を拝名して持節を与えられ河北の慰労に当たり功績により食邑を加増され数年後には廷尉卿に移ります。
衛瓘は法理に明るく、訴訟の裁決を行う際は、些細な案件も重大な事案も情をもって対応しました。西暦263年、征西将軍鄧艾と鎮西将軍鍾会が蜀漢征伐の兵を興すと、衛瓘は廷尉卿・持節をもって鄧艾と鍾会の軍事の監査を司馬昭に命じられます。衛瓘は同時に行鎮西軍司に任じられ兵1000人を加えられて征伐軍に従軍しました。
鄧艾の独断専行
蜀討伐は、総大将の鍾会と鄧艾、諸葛緒が中心となり漢中を陥落させ巴蜀に入りますが、姜維が諸葛緒の追撃を切り抜けて陰平から退却し、天然の要害である剣閣に籠城した事で膠着します。
飽きっぽい鍾会は退却を考えだしますが、地形マニアの鄧艾は剣閣を迂回して断崖絶壁を踏破して成都を陥落させるプラン。
”火曜スペシャル!鄧艾探検隊 蜀の秘境に漢の帝都(エルドラド)を見た”を提案。
鍾会の許可を得ると、切り立った崖を登り岸壁を穿って桟道を通し、急な崖を絨毯にくるまって転げ落ちるなどの冒険進軍の末に突破し
綿竹で諸葛瞻を戦死させ劉禅を降伏に追い込みました。
蜀を滅亡させ最大の功労者になった鄧艾は、兵士の略奪を禁じ、劉禅以外の群臣の地位を暫定的に元に戻すなどして民心の安定を図りますが、この機に乗じて呉も滅ぼそうと考え、司馬昭の許しも得ずに戦争の準備を開始し、独断専行の動きを見せ、司馬昭の諫めも聞かない状態になります。
知略で鄧艾を護送車に載せる
鄧艾に大手柄を奪われた鍾会は、この頃すでに益州を根拠地に謀反を起こし魏を滅ぼそうと画策していたので衛瓘を呼び出して鄧艾の処分を話し合いました。
衛瓘も鄧艾の振る舞いは専横が過ぎると考えて賛同。鍾会は司馬昭に鄧艾が謀反を企んでいるので逮捕したいと書状を送り許可され、ほどなくして護送車が送られます。
衛瓘の役割は監査であり鄧艾を逮捕する役割でしたが、困った事が起きました。鄧艾の兵に比べて衛瓘の兵は1000名と少なく、鄧艾が命令に抵抗した場合、衛瓘が殺害される可能性が高かったのです。
その事は鍾会も承知していましたが、邪悪な鍾会は鄧艾が衛瓘を殺害すれば、より罪を重くできて好都合と考えていたようです。鍾会は本当に性格が悪いですね。
しかし、衛瓘も負けてはいません。衛瓘は昼間に鄧艾と対峙する事を避け、夜中に成都に入ると鄧艾の部下を集めて詔を見せトウ艾に逮捕状が出た事を告げます。そして”従えば爵位と褒賞は保障されるが、詔に反逆するなら三族皆殺しとする”と伝えました。
これにより夜明けと共に鄧艾の部下の多くは衛瓘に味方し、衛瓘は使者の車で成都殿に向かうとまだ眠っている鄧艾と子の鄧忠捕縛します。
一度は衛瓘に従った鄧艾の部下ですが、やはりオカシイと考え直し鄧艾を奪い返そうと武装して衛瓘の本陣に向かいますが、衛瓘は軽装でこれを出迎え、偽造した上表文でトウ艾が逮捕されるべき理由を詳しく述べたので鄧艾の部下は、これを信じて取りやめました。
危ないところでしたが、知略を駆使して衛瓘は鄧艾を捕縛したのです。
鍾会に謀反の仲間に誘われる
鍾会は鄧艾の兵を吸収して成都殿に入ると、遂に謀反を開始。最初に自分の思い通りになりそうにない魏の牙門将軍や郡守を招集して逮捕し成都の官舎に幽閉。次に成都城の全ての城門を閉じて、自分の思惑に従う兵士に城内を警備させ戒厳令を敷きます。
鍾会は、自分の命令を忠実に実行した衛瓘を味方だと思っていたので、今後の謀反の計画について話し「幽閉した魏の将官は皆殺しにしようと思うがどうだね?」と相談します。
ちょっと、ちょっとぉ、この人、衛瓘が鄧艾に殺されれば、鄧艾の罪が増えて好都合と考えていた人ですよね?さっきまで見殺しにしようと考えていた人間を平気で謀反の仲間に引きこもうとするなんて、ちょっと神経を疑っちゃいますよ。
衛瓘、謀反を拒否
衛瓘は役目でトウ艾を逮捕しただけであり、謀反に加担する気はなく、これに猛反対したので、当然、鍾会と衛瓘の関係は悪化しました。
衛瓘はトイレに行く振りをして、密かに鍾会の配下で今は幽閉されている胡烈の兵士だった人物に会うと、成都城の外に待機している兵に鍾会が謀反を企んでいると伝えさせます。
その後も鍾会はしつこく衛瓘に仲間に入るように強制しますが、衛瓘は拒否。この調子では殺されると恐れた衛瓘は、おちおち眠る事も出来ず膝の上に刀を横たえて、ぶるぶる震えていたそうです。
成都の城外では、すでに鍾会謀反の知らせが全ての兵士に届いていましたが、肝心の衛瓘が出てこないので魏兵も行動を起こす事を躊躇していました。
鍾会は城外の魏兵が騒然としている事を知ると衛瓘を派遣して軍を慰労させようと考えます。早く城から出たい衛瓘でしたが、敢えて鍾会の意志を固くしようと「鍾会が自ら慰労すべきだ」と反対しますが、鍾会は衛瓘の後に出発するので先に向かえと命じます。
衛瓘は感情を表さず、徒歩で悠然と成都宮殿を離れますが、鍾会は「よく考えたら、あいつを城外に出したら魏兵を扇動するんじゃね?」と今頃気づき、すぐに追手を派遣して衛瓘を拘束しました。
必殺!仮病攻撃
捕らえられた衛瓘は、ここは仮病攻撃だと決意。いきなり「ううっ、気分が悪い、めまいだ、吐き気もする」と叫んで地面に倒れ込みました。これを見た追手は、気味が悪くなったのか衛瓘を放置して引き下がります。
え?なんでって?そんなの知りませんよ、そう史書に書いてあるのです。こうして、最初の追手を迫真の演技力でやり過ごした衛瓘ですが、城門を出た所で今度は数十人の追手がやってきました。
衛瓘はすぐに官舎に入ると、食塩を加えた白湯を飲んでから、オーボロモロモロモロモロモローーーと盛大に吐いてみせます。どう見ても茶番なんですが、衛瓘は元々病弱で、ここ数日は殺されるのを恐れて、ろくろく寝ていないので追手には衛瓘が重病に罹ったように見えたそうです。
鍾会は医者を派遣し衛瓘が本当に重病か診察させますが、この医者はポンコツだったのか、「衛瓘はもはや長くない」と適当な診断を下しました。こうして鍾会は、もうじき死ぬヤツに何もできまいと安心し、衛瓘を成都城から出したのです。衛瓘の仮病攻撃は大成功を収めました。
鍾会の乱鎮圧と鄧艾の殺害
日が暮れて門が閉ざされると衛瓘は檄文を作成して兵士に鍾会討伐を命じます。すでに魏兵は準備を整えていて、翌朝を迎えると共同で鍾会を攻撃しました。
鍾会は側近を率いて抵抗しますが、魏兵はこれを撃破し、宮殿を守るのは直属の部下、数百人を残すのみとなります。その為、鍾会は逃亡を図りますが、魏兵はこれを捕らえてことごとく殺戮、鍾会の乱は呆気なく鎮圧されました。
鍾会が殺害されると鄧艾の兵は鄧艾の護送車を追いかけて救い出し、反転して成都に向かってきました。衛瓘はかつて鍾会と共同で鄧艾を罪に落とした事から、鄧艾と鄧忠に復讐される事を恐れ、同時に鄧艾が戻ると鍾会の乱鎮圧の手柄が台無しになると考え鄧艾親子を亡き者にしようと計画します。
こうして、衛瓘はかつて鄧艾に進軍を躊躇した事で殺害されかけた恨みがある護軍の田をそそのかして兵を与え綿竹に派遣し、鄧艾と鄧忠親子を首尾よく殺害しました。
鍾会の乱後の衛瓘
鍾会の乱が一段落すると、朝廷は衛瓘の功績を称えて恩賞を与えようとしますが、衛瓘は蜀征伐については全員の功績で、その後の混乱については、鄧艾、鍾会が自ら滅亡へ進んだだけであり、自分で主導して鎮圧したのではないと、恩賞は固辞して受けなかったそうです。
衛瓘は、この功績で使持節・都督関中諸軍事・鎮西将軍に任じられ、昇進して都督徐州諸軍事・鎮東将軍に移動し菑陽侯に封じられます。さらに余爵として弟の衛寔が開陽亭侯に封じられ、栄誉は一族にも波及、後、衛瓘は徐州に着任し行政官として大いに治績を上げ活躍しました。
衛瓘のまとめ
衛瓘はその後、司馬炎お気に入りの寵臣となり、位人臣を極めます。しかし、因果は巡るもので、
司馬炎の後継者問題で皇太子の司馬衷を暗愚であるから後継者に相応しくないと意思表示してしまい、司馬衷の妃である賈南風に恨まれる事になります。
司馬衷が即位した後も衛瓘は表面上重んじられますが、暴君である楚王司馬瑋を司馬亮と厳しく諫めて、その権力を制限した事で恨まれ、賈南風と結託した司馬瑋により”衛瓘は伊尹・霍光を模倣して皇帝廃立を企んでいる”と詔を出され、全ての役職を解かれ逮捕された後に処刑されました。
晋の重臣、杜預は鄧艾を尊敬していたので、衛瓘が鄧艾を殺した事を激しく非難し、君子の皮を被って名士顔をしているだけの小人で正義に即した行いも出来ない。この報いで、将来必ず殺されるに違いないと言い、それを恐れた衛瓘は車の仕度も整わない間に駆けだして杜預に陳謝したそうです。衛瓘は無能ではありませんが、保身の為に鄧艾を殺すなど身勝手な行動が散見されます。
杜預の評価は、ある程度的確で、その死も過去に自身が鄧艾を陥れた報いを受けたと言えなくもないですね。
参考:正史三国志 晋書
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