中国は秦の始皇帝の時代からガチガチの官僚主義の世界でした。これだと、決裁事項はルーティーンワークで決められ、全てが上意下達だったように考えてしまいます。つまり、上の命令が絶対で下は唯々諾々と従うだけ「ああ、下っ端はモノも言えない辛いなー」という事です。
しかし、実際の秦・漢時代の地方官庁では、もちろん、ルーティーンワークも多いのですが、問題が刑罰や人事に関係すると、長官ばかりではなく次官や担当部署の人間を集めてディスカッションを行っていた事が記録から浮かび上がってくるのです。
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判決に影響力を持った吏議
秦や漢の時代の県では、令や丞の意思決定を要する業務の多くを裁判関連が占めていた事が分かっています。そして、これらの容疑者の取り調べは、その多くを吏と呼ばれる下級役人が担当していました。
その為、県令や丞は刑罰を裁定する時に、これら下級役人の意見を尊重する事が一般的にありました。そのような、下級役人の意見を吏議と言います。県令はそのような下級役人の意見に自分の意見を加え、その上で判決を下していたわけなので下級役人は判決について一定の影響力を持っていたのです。
吏議と或曰によるディスカッション
そのディスカッションの様子は、張家山漢簡、岳麗秦簡から出土した「為獄等状」等の木簡から出てきます。それによると、木簡には吏議と或曰という二つの異なる意見者が、それぞれの意見を提示しています。
吏議曰「葵・瑣等は罪に該当する。沛・綰等は罪に該当しない」
或曰「葵・瑣等は耐刑(ひげそり)として侯とするに該当し、瑣等に葵等の銭を返還させる・・」
上記の通り吏議が意見をいい、それに対し、或いは曰くとして別の人間が異なる見解を上げている事が分かります。これが、複数官吏による公開討論だったのか、或いは、県令が個別に意見を聴いたのか?
そこまでは明らかではありませんが、吏議曰くに或いは曰くと違う意見が出る点を見ると、公開討論の可能性の方が高いと思います。
こうして、裁判では複数の吏と県令、丞を含めたディスカッションをし意見がまとまれば、そのまま判決を下し意見がまとまらないとそれぞれの意見を付して、上位の官庁である郡に判断を求めたのです。当時の県令や丞は、決して自分の判断だけで犯罪者を裁いていたわけではなかったわけです。
ディスカッションは口頭意見だった根拠
しかし、残っているのは木簡であり、ボイスレコーダーではありません。本当に秦や漢の時代の下級役人と県令が口頭でディスカッションをしたのでしょうか?
その証拠については、後漢の明帝期に青州刺史の王望が庶民の救援の為に、独断で蔵を開いて布穀を支給した事項について明帝が「百官に章示して詳らかにその罪を議せしめた」という記録があります。
後漢書:劉趙淳于劉周趙列伝
ここでは、尚書僕射の鍾離意が「独り曰く」として意見を述べると明帝は鍾離意の意見を嘉して罪に問わない裁定を下したとあります。こちらは、中央の事例ですが、同じ事が県のような小さな行政区でも行われていた可能性は高いでしょう。
また、事件によっては、目撃者や関係者を呼び出して、事情聴取したり尋問するような事もあったようです。刑罰の場合には、執行してから冤罪という事になると取り返しがつかないので出来る限り、様々な意見を採取したのだと思います。
ディスカッションはどのように行われた?
では、はディスカッションはどのように行われていたのでしょうか?
県庁では、曹とそれぞれのセクションが結びついていて、何かあれば該当するセクションから必要な人材を呼び出して意見を言わせるような制度がすでに整備されていたようです。
また、刑罰ではなく人事に関わることでも、令曹など県庁自体が行う実務担当部門と所属する属吏で同様のやり取りがあったのではないかと考えられます。
人事についての事例では、龔遂が渤海太守であった時の事、彼の悪評判を聞いた太守が数年で龔遂を召喚して事情を聴いていますがその時に、龔遂の議曹の王生が従う事を願ったので一緒に呼んで意見を聴いています。
数年にして上、使者を遣わして遂を徴し議曹の王生、従うを願う。
功曹以為らく、王生素より酒を嗜みて節度なく使うべからず
王生は功曹として、龔遂の酒癖の悪さを遠慮なく告発しています。それに対し、太守は王生の意見を容れませんでした。ただ、県の曹に対し上司の態度を聞くという制度をここでも見る事が出来ます。
ディスカッション出来ない場合
ですが、県も膨大な問題の決済に追われている状態ですから、いつでも、ディスカッションをしているわけにはいきません。実際は、口頭で議論した方が理想でもコストと時間の問題で、それが出来ない事も多くありました。このような場合には、白字簡という木簡を使って代用しました。
吏の馮申し上げます。
呑遠侯長の章の檄に兵卒、范詡・丁放・張況を遣わして官に出頭させるとありましたが、今、皆到着しました。
書檄を開いて提出致します。
このように、様々な理由で口頭で報告できない場合には、白字簡という木簡を使用していました。
三国志ライターkawausoの独り言
ディスカッションと言っても、それほど多人数が参加するわけではなく、県令、丞、担当吏などわずか数名でした。また、ディスカッションの習慣も後漢の時代に入ると豪族連合政権という性格から県令はディスカッションに参加せずに吏に判断を任せるようになります。
これは、県の吏はほとんど地域の豪族であり、県令としては、ディスカッションで対立して、豪族との間に波風を立てたくないという心理があったようです。
三国志の登場人物も、その振り出しが地方の県の吏から始まった人も多いので、或いは、ディスカッションに何度も関わり意見表明を磨いた人もいたでしょう。逆に鄧艾のように生まれつき吃音がある人は、ディスカッションでは、思ったように意見を言う事が出来ず、肩身が狭かったかも知れません。
参考:PDF 秦・漢時代地方行政における意思決定過程 高村武幸
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