三国志、呉の初代皇帝として、天下争奪に鎬を削った孫権ですが、
そのキャラクターの地味な事は皆さんご存じの事だと思います。
この記事の目次
孫権の生い立ち
それもその筈で、孫権が生まれたのは、西暦181年で黄巾の乱の3年前です。
更に、西暦189年の袁紹を盟主とする反菫卓連合軍が起きた時でさえ、
孫権は僅か8歳、確かにこれでは活躍しようがありません。
天才軍師・ 諸葛孔明と同じ年に生まれた
あの天才軍師、諸葛孔明が同じ西暦181年の生まれで、
彼が、三国志に出現するのが、西暦208年の事
劉備に三顧の礼を持って迎えられた時です。
つまり、孫権は、諸葛孔明と同期(タメ)という事になり、
三国志の英傑達とは、一世代程、下に当たっている事になります。
曹操・劉備との違い
おまけに、曹操や劉備が、徒手空拳で自分の地位を掴んだのに対し、
孫権は、父が死に、兄、孫策が刺客に襲われて病が癒えず憤死した
その後を受けて、西暦200年、19歳で呉の地を任されています。
そこにドラマチックな話を期待できる筈もなく、
何の苦労もなく、指導者の地位についたボンボンという印象は
拭えない部分があるでしょう。
しかし、だからと言って、孫権が何の苦労もなく、
呉を統治したという事は全くありません。
2代目・3代目の苦悩
実際には、創業者の二代目、三代目には、
恵まれているからこそ、生じる苦難というものがあります。
その第一は、自分が当主になる前から仕えている古参の武将達
文官達の存在があります。
創業者ならば、共に戦場を駆け抜けたという連帯感がありますが、
二世には、そんな共通体験が存在しません。
そこで若い自分を頼んで、強権的に振る舞うと、古参の有力武将の
離反を招いて、国が分裂したり内乱状態に陥る恐れがあります。
さりとて、全てを古参武将の言いなりにすると、
いつまで経ってもリーダーシップを発揮できず、
最後には侮られ、指導者の地位を追われる恐れもあります。
日本史でも同じような史実がある
日本の戦国時代でも、偉大な戦略家、武田信玄の跡を継いだ
武田勝頼は、古参の武将達を纏める事が出来ず、
結果、度重なる敗戦で武田家を滅亡に追いやります。
決して勝頼が無能だったわけではありません、、
それだけ、創業者が興した事業を継ぐというのは、
難しいという事なのです。
孫権は難しい舵取りを巧みにやり遂げた
ところが、孫権は、二代目特有の難しいかじ取りを
巧みにやり遂げました。
孫権が指導者の地位にあったのは、西暦200年から、
80歳で没する、西暦252年まで52年間という長期に及びます。
若き孫権は、そうでなくても、自己主張が激しい時期に、
身を低くして、低姿勢で振舞い、張昭や、程普、黄蓋というような、
先代、先々代からのウルさい古参の名将の諫言を良く聞きます。
それは演技だけで出来るわけではなく、真剣に耳を傾けて、
採用すべき意見は採用したので、古参の武将達も孫権を
「若造」と侮らず一致協力して、これを助けたのです。
外交の先を読む能力にも長けていた
また、そればかりでなく、外交の先を読む能力にも長け、
赤壁では、家臣に曹操に降伏すべきという意見が多かったにも関わらず、
周瑜や、諸葛孔明の主戦論に理があると見ると、大勢を覆して、
これを支持しています。
この記事を書いた人:
HN:
kawauso
自己紹介:
三度の飯の次位に歴史が大好き
10歳の頃に横山光輝「三国志」を読んで衝撃を受け
まずは中国歴史オタクになる。
以来、日本史、世界史、中東、欧州など
世界中の歴史に興味を持ち、
時代の幅も紀元前から20世紀までと広い。
最近は故郷沖縄の歴史に中毒中、、
好きな歴史人物:
西郷隆盛、勝海舟、劉邦、韓信、、etc
何か一言:
歴史は現在進行形、常に最新のジャンルです。