司馬昭は霍弋の覚悟に感銘を受ける
司馬昭は霍弋の言葉を部下から聞き、感銘を受けます。司馬昭は霍弋に南中都督の職を与え、引き続き雲南地方の統治を任せます。
ベトナム制圧へ
呉の交州太守(こうしゅうたいしゅ)呂興(りょこう)は反乱を起こします。その際、霍弋に援軍を送ってくれるように依頼します。霍弋は援軍を派遣しようとしますが、呂興は部下にすでに討たれており、援軍を送る事はできませんでした。その後彼は呂興が反乱を起こした交州・九真・日南三郡を平定します。この三郡は現在のベトナムがある場所です。こうして三郡を領土に加えた功績が認められ、列侯に封じられます。彼はこうして雲南地方を長い間統治し、民衆や異民族からも慕われており、彼が亡くなった時大勢の人が、悲しんだとされております。
三国志ライター黒田廉の独り言
蜀の滅亡後、劉禅の安否を気にして、降伏を進んでしなかった霍弋は見事としかいいようのない人物ですね。魏の帝位が司馬氏に簒奪された際や呉の滅亡時にこのような人物は出てきませんでした。蜀の後半は人材が不足しており、厳しい状況でしたが、霍弋はそんな中、蜀の国内に隠れた名将と言っても過言ではありません。しかし残念なのは彼が中央から遠く離れた雲南地方の統治を任されていた事です。姜維の北伐に雲南地方の軍勢を率いて一度でも参加させていれば、中々面白い戦いが見る事ができ、彼の名前ももっと有名になっていた事でしょう。
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