習禎とはどんな人?事績が乏しいが習鑿歯に蜀漢正統論を主張させる原因になった人

2022年8月23日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

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おとぼけ(田畑 雄貴)

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習禎 三国志の政治家

 

習禎(しゅうてい)は劉備の入蜀(にゅうしょく)に従い、各地の県令を経て広漢太守(こうかんたいしゅ)まで昇進した人物です。しかし正史三国志には習禎の記述は乏しく、僅かな事しか分かりません。

 

ところが習禎が没して100年以上が経過して登場した子孫の習鑿歯(しゅうさくし)が優秀で蜀の知名度を爆上げする1つの書物を編纂(へんさん)しました。今回は子孫の功績で名前が知られた習偵について解説します。

 

 

習禎は荊州襄陽郡の人

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

習禎は字を文祥(ぶんしょう)といい荊州襄陽郡(けいしゅうじょうようぐん)の人です。

 

西暦211年劉備が入蜀の軍を起こすときに従い益州に入って雒県(らくけん)、郫県(ひけん)の県令を経て広漢太守に昇進しました。習禎には習忠(しゅうちゅう)という子がいて尚書郎(しょうしょろう)にまで昇進したそうです。ところがこれ以上の事は記録が散逸(さんいつ)しているので、分からないとなっています。

 

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習鑿歯が襄陽記で記録

裴松之(歴史作家)

 

しかし正史に記録が乏しい習禎は裴松之(はいしょうし)の注釈によって襄陽記(じょうようき)の記述が引用されます。

 

三国志、蜀書楊戯伝(ようぎでん)が引く襄陽記によると習禎は

 

龐統

 

風流であり、談論に巧(たく)みで名声は龐統(ほうとう)に次ぐもので馬良(ばりょう)よりも右(みぎ)にあった。子の習忠も名声があり、習忠の子の習隆(しゅうりゅう)は歩兵校尉(ほへいこうい)となって秘書の校訂(こうてい)を担当した。

 

短い文章ですが、襄陽において龐統につぐ名声を獲得し馬良の右、つまり馬良を上回ったと随分と褒めています。これが事実なら習禎の記述が正史から失われたのは、真に惜しい事ですが、どうも怪しいようです。

 

内容に納得がいかないkawauso様

 

というのも、襄陽記を書いた習鑿歯は、この習禎の子孫で祖先を顕彰すべくかなり功績を盛っている可能性があるからです。というより当時の系統図は先祖顕彰の動機なしに書かれないので、100%業績は盛られていると見ていいでしょう。

 

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習鑿歯とは何者?

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では、習偵の事績を盛った習鑿歯とは何者なのでしょうか?

 

習鑿歯は字を彦威(げんい)と言い荊州襄陽で生まれ、若くして志を持ち博学で文筆に秀でました。その名声を聞いた荊州刺史桓温(けいしゅうしし・かんおん)が招聘(しょうへい)し従事(じゅうじ)(秘書)として近くで使い、その後、江夏相(こうかしょう)の袁喬(えんきょう)が桓温に推薦したので西曹主簿(せいそうしゅぼ)に転任、さらに厚遇されます。

 

習鑿歯は桓温に任された仕事はすべて期待以上でこなし戦争にも従軍。要職を歴任して実績を積み重ね議論にも長けていたそうです。

 

漢王朝と光武帝

 

習鑿歯が歴史書を書き始めたのは、この東晋の実力者桓温が帝位簒奪の野望を抱いた時「漢晋春秋」という後漢の光武帝から西晋の慇帝までの歴史書を上申したのが最初です。結局桓温は帝位を諦め、習鑿歯も脚を悪くして荊州襄陽に隠居し「襄陽記」を執筆しました。

 

つまり習鑿歯が「漢晋春秋」を書いたのは桓温の簒奪を諫めるのが目的だったわけです。

 

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蜀漢正統論を主張した習鑿歯

晋王朝を作った司馬炎

 

全然、習偵と関係ない話で恐縮ですが、ここから少し関係性が出てきます。こちらの習鑿歯、自分が編纂した漢晋春秋において

 

「晋は魏の禅譲を受けて成立したのではない!司馬炎が蜀漢を滅ぼした時に、初めて後漢を倒して成立したのである」と主張したのです。

 

オンライン授業の講師を務めるkawauso編集長

 

もう少し具体的に言うと習鑿歯は

 

①曹丕が後漢献帝に禅譲させて建国した曹魏王朝

②曹魏五代目皇帝曹奐が司馬炎に禅譲して建国した晋王朝

 

このような後漢→曹魏→西晋という三段構えの歴史観から曹魏をすっ飛ばし

 

①司馬炎が後漢を継ぐ蜀漢を滅ぼし初めて後漢が滅亡し易姓革命が成立した。

 

降伏する劉禅

 

と、蜀漢に後漢の後継王朝の地位を認め、曹魏の建国を認めない歴史観を打ち出します。これは当時誕生した蜀漢正統論と呼ばれる考えを代弁していました。だからこそ漢晋春秋は「漢魏晋春秋」にはなっていないのです。

 

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司馬昭の質問に回答する劉禅

 

では、どうして習鑿歯は蜀漢こそが後漢を継いだ正当な王朝だと主張したのでしょうか?やはり先祖の習偵が蜀に仕えていたので、蜀漢を正当な後漢の後継者として箔をつけたかったのかと早合点(はやがてん)してしまいそうですが、どうやら違うようです。

 

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蜀漢正統論は簒奪防止の方便

簒奪する王莽

 

実は蜀漢正統論の背景には、東晋皇帝の権力の弱さがありました。東晋はすでに紹介した桓温や桓玄(かんげん)父子、その後の劉裕(りゅうゆう)による簒奪(さんだつ)の恐怖に悩まされていたのです。

 

東晋皇帝としては「簒奪は善くない!皇帝を敬いなさい」と言いたいのですが、晋王朝自体が曹魏からの禅譲により成立した事情を抱えていました。

 

北方謙三風ハードボイルドな曹丕

 

簒奪者から見れば「ふ~ん、自分は簒奪で建国したのに俺達には簒奪するなって言うんだ。ふ~ん」とおまゆう状態であり、全く説得力がありません。

 

そこで晋は禅譲により成立したのではなく後漢の後継者である蜀漢を滅ぼして初めて成立したのだと蜀漢正統論を持ち出して簒奪を阻止しようとしたのです。

 

魏晋世語(書類)

 

つまり習鑿歯は先祖の習禎が蜀に仕えていた事に関係なく、東晋簒奪を阻止する政治的な意図をもって蜀漢正統論を推したのですが、その東晋は劉裕の簒奪で滅びました。

 

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馬謖

 

 

習禎がいたから漢晋春秋は生まれた?

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蜀漢正統論はあくまで政治的な方便と述べましたが、清の乾隆帝(けんりゅうてい)の時代に成立した歴史書「四庫提要(しこていよう)」によると、漢晋春秋は中原を曹魏に追われて巴蜀に逃げのびた蜀漢の境遇に東晋を重ね合わせたとしています。

 

この見方が正しいなら、やはり習鑿歯にとって先祖の習禎は悪の曹魏に立ち向かい蜀漢を興した劉備に味方した英雄であると認識していた事になります。

 

曹操に立ち向かう劉備と孫権

 

「ご先祖様は悪い曹操に対抗し蜀を建国した劉備の忠臣だ!龐統には負けるが馬良には名声で勝っていたんだぞ」習鑿歯にはこんな思いがあり、それが漢晋春秋を編纂する動機になったとすれば地味な習禎は蜀漢正統論の補強に一役買っていたと言えるかも知れません。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

今回は習禎について、というより7割は子孫の習鑿歯について書いてみました。習偵は龐徳公(ほうとくこう)や司馬徽(しばき)のグループに入っていなかったために劉備の率いた荊州襄陽組では、あまり大きな顔が出来ず、またそれを実力で覆すほど高い才能に恵まれなかったのかも知れません。

 

それでも子孫に習鑿歯が登場し東晋の英雄桓温に仕えるに至り、蜀漢を正統とする「漢晋春秋」を編んで後世に影響を与えました。習偵は子孫の習鑿歯により蜀漢をメジャーにする事に一役買ったと言えるでしょう。

 

参考文献:正史三国志 漢晋春秋

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。「はじめての三国志」編集長。三国志・中国史を中心に、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を執筆・編集し、当サイトでは4,000本以上の記事を担当。三国志は正史から入ったため、演義を書くときのほうが神経を使うという天邪鬼。故郷・沖縄の歴史に関する勉強会の開催や、ラジオパーソナリティとしての活動も行う。

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