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この記事の目次
息子の成長を兄への手紙で報告する親バカ孔明
西暦234年、孔明は五度目の北伐に出ます。これが五丈原の戦いで、孔明の人生が終わりを迎える時です。この年、一人息子の諸葛瞻は、まだ8歳でしたが、幼いながらも聡明で孔明を喜ばせていました。パパ孔明は、兄である諸葛瑾に手紙を書いています。
「息子は、もう八歳になりました、才気煥発なのですが、、私は、早熟である事を恐れています。あまりに早熟だと、大器にならないとも言いますし・・」
子供が利発である事を喜ばない親はいません、しかし、余りに早熟だと二十過ぎればただの人という事にならないかと孔明は、心配していたのです。そう考えると、気が早いというか、微笑ましい、父としての孔明の親バカぶりが伝わってきます。この手紙に諸葛瑾は、なんと返事を書いたのでしょうか?その事が伝わっていないのは、残念です。
残された息子へ書いた、孔明渾身の誡子書(かいししょ)
五十歳を過ぎた孔明は、健康の衰えをより強く感じていました。蜀は孔明なしには一寸も動かない状態でしたので、元々、体が丈夫ではない彼は、激しい仕事で健康を蝕まれていたのです。
「私は息子が大きくなるまでは、生きられないのではないか?」
という不安が孔明には常にありました。そこで、幼い息子、瞻が大人になったら、分かるように、誡子書という書を記していました。意味は、子供を戒(いまし)める書という堅い内容です。
子供への期待と愛に溢れた誡子書
「立派な人物になりたいなら、軽率にならず静かに身を修める事だ。常に質素で謙虚に振舞い、周囲の人望を集められる人間を目指しなさい。ガツガツと、出世主義になって人を蹴落としてはいけない。それでは、大きな目的を成し遂げる事は難しくなるだろう。また、血気に逸ってもいけない、それでは、遥か遠くにある目標まで辿りつく前に疲れ果ててしまうからだ。常に学ぶ事を忘れてはいけない、才能は磨かないと光らないし、目先の利益に走れば、大きな目的を忘れてしまうだろう。卑しくも、学問が出来る事をひけらかし、人を見下すような、つまらない人間になってはいけない。自分は何でも知っていると、うぬぼれている間に、心ある人には見捨てられ、月日は流れ、顔には皺が刻まれ、あれだけあった夢も目的も意欲も枯れ果てて、何も成し遂げる事も出来ない間に、空しく貧しさの中に果てる。世の中には、あまりにも、そういう例が多い、心しなさい。」
意訳すると、大体、このような意味になります。とても厳しい激励ですが、同時に、息子には、人々を導く、大人物になって欲しいという、孔明の父としての思いが溢れています。
三国志ライターkawausoの独り言
孔明は、自他共に厳しい人なので、息子であっても手放しには褒めていません。しかし、息子に厳しいという事は、大人物になるのを期待しているという意味でもあると思います。
現実には、諸葛瞻は書画に巧みで記憶力が良いという以外には、孔明に匹敵する力はなく、綿竹で鄧艾の軍勢を防いで戦死しましたが、むざむざ降伏しなかっただけは、剛直な孔明の名を汚さないで済んだでしょうか。また、諸葛瑾からの養子の諸葛喬は、孔明に、その才能を楽しみにされつつも寿命には恵まれず、西暦228年、25歳という若さで漢中で病死しています。本日も三国志の話題をご馳走様でした。