現在では、テレビ・ラジオCMなどで流される事が多い、政府や地方自治体の広報、これは、何も、現在の日本だけにあるのではなく、三国志の時代にも、立て札の形ですでに存在していました。
では、当時の広報には、どのような事が描かれていたのしょうか?
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立て札は、都市の至る所に設置されていた
さて、今でいう政府や地方公共団体の広報は、当時の言葉で扁(へん)と呼ばれていました。
それは、以下のような漢帝国の法律により設置されます。
① 郷、亭、市、里、の目につく所に明確に大きく掲げ、吏民すべてに読ませよ。
② 扁に胡虜の購賞について記載せよ、二亭ごとに一つの扁を掲げよ。
この二つを見ると、扁は、一番小さな行政区の里から、里の共同体である郷、そして市場、さらには市場を獲得する交番所のような存在だった亭にまで、複数掲げられたという事が理解できます。
また、②の胡虜(こりょ)というのは、異民族の捕虜の事で、漢の土地を荒らした異民族は捕えて引き渡せば、お金を与えるという意味です。
この当時、異民族が国境を侵して、土地を荒らすというような事例はかなり多かったであろうというのが分かります。
貴重な社会情勢と庶民の窓だった扁
三国志の英雄、劉備(りゅうび)は、西暦184年に、義勇兵募集の立て札を見て、兵を集めていますが、その劉備が見たのも、恐らく扁でしょう。
黄巾賊が跋扈して、大乱になり正規兵では、間に合わない後漢政府は、扁を通じて、各地の都市に義勇兵を募集して、劉備や孫堅(そんけん)のような在野の士が決起したのでしょう。
そうして考えると、扁には、社会情勢と庶民を結び付ける、現在のメディアのような効果があったと言えますね。
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