龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)は領内の城を落とした有馬家を滅ぼすため、
本拠である佐賀城を出陣。
彼は総勢2万5千の軍勢を終結させ、島津・有馬連合軍を壊滅させるべく
沖田畷(おきたなわて)に向けて進軍を開始します。
※プチ漢字情報・畷という漢字には湿地帯を通る小道という意味があります。
前回記事:【九州三国志】『三國志』は中国だけじゃない!日本の三国志事情 Part.2
決戦前日の連合軍
一方先に沖田畷に到着していた連合軍は軍議を開きます。
有馬家当主である有馬晴信は軍議で「わが方の軍勢は5千程度。
対する龍造寺軍は2万5千の大軍です。
そのため島津軍の援軍が到着してから龍造寺軍に決戦を挑んだほうが、
勝つ可能性があると思うが。どうでしょう。」と発言。
島津軍を率いている島津家久は晴信の発言に
「われらは少数といえども、精鋭の軍勢です。
また国元の軍勢は先日出陣したと伝えてきましたが、
海の状態によってはすぐにこちらに来援できない可能性があります。
そのため積極的に防衛戦を繰り広げ、援軍が到着し次第反撃を行いと思います。」と
進言。
軍議は家久の発言によって決定されると、
すぐに沖田畷近くにある森岳城の防備を固めます。
森岳城の防備が固まると伏兵を山の中に1千ほど伏せさせ、
海岸線にも伏兵を設けます。
家久は沖田畷に残った兵を布陣させ、柵や堀を作らせ、防御工事を行います。
家久が防御工事を行った翌日、龍造寺軍が大軍を持って押し寄せてきます。
九州の覇権をかけた沖田畷の戦い
龍造寺隆信は森岳城が見える小山に上り、敵陣を俯瞰します。
すると敵軍の数が異様に少ないことが判明。
隆信はすぐさま伝令に「わが軍が圧倒的に有利だ。一気に敵陣を攻めつぶせ。」
と伝えさせます。
こうして龍造寺軍は沖田畷の中ほどにある家久の陣を見つけると、
火の出るような猛攻を行います。
家久は龍造寺軍が至近距離に近づくと鉄砲・弓などを一斉に放たせます。
この斉射により、龍造寺軍は一時的に先鋒が崩れ、態勢を立て直すために
退却します。
その後再びやってくるも、斉射により再び崩れてしまいます。
お家芸炸裂
家久は二度目に龍造寺軍が崩れた時、烽火を挙げさせます。
この烽火を見た島津軍伏兵は一斉に立ち上がり、
お家芸である「釣り野伏」の戦法が炸裂。
沖田畷にいる龍造寺軍に対して猛射撃を加えると共に、
奇声をあげて突撃を行います。
龍造寺軍は島津軍の猛攻に耐えきれず、退却を行います。
しかし沖田畷は湿地帯で沼のような場所で、道幅が狭く、
身動きがとりづらい地でした。
そのため大軍である龍造寺軍は後から押し寄せてくる軍勢のため、
退却が困難な状況に陥り、兵全体がパニック状態になります。
この収集のつかない状況の中、バタバタと龍造寺軍は倒れていきます。
肥前のクマさんの最後
肥前のクマさんこと龍造寺隆信は、小山を下り本陣に身を移して
戦況を見守っておりました。
その時島津軍の武将・川上忠堅の軍勢が攻撃を仕掛けてきます。
隆信は島津軍の攻撃を何とか防いでいる最中、
川上忠堅によって斬りつけられ、討ち取られてしまいます。
こうして肥前のクマさん事龍造寺隆信はあっけない最期を迎えることになります。
沖田畷の戦いに勝利し、九州の覇者は島津家の物に
島津家久と有馬家の連合軍の活躍により、
沖田畷の戦いは大勝利で終わります。
この戦いの後、龍造寺家は急速に勢力を衰えさせ、島津家に臣従することに
なります。
そして大友家も勢力を激減させる中、
島津家に敵う勢力は九州に残っていませんでした。
こうして九州三国志は島津が九州の覇権を握ることで終幕することになります。
三国志ライター黒田廉の独り言
九州三国志いかがでしたか。
日本にも三国による争いがあり、その争いを中国の三国志をまねて
三国志と冠することがあります。
もちろん日本の三国志は九州以外にも、「中国三国志(毛利・尼子・大内)
関東三国志(上杉・武田・北条)」などもあります。
さて今回の九州三国志の覇者になった島津家のその後を少し記載したいと
思います。
島津が最後に龍造寺を下し、九州地方の覇権を握ります。
その後肥後全域を手中に収めた島津軍は、大友家の残党が残っている
北九州全域の制圧に向かいます。
大友家に味方していた豪族はほとんどすべて島津家に寝返り、
岩屋城と立花山城を残し、北九州は島津家の物になります。
島津軍は孤城である岩屋城に数万の軍勢で攻め寄せます。
岩屋城主・高橋紹運は島津軍の猛攻に奮戦します。
しかし800人程度では数万の島津軍に勝てず、岩屋城は
城主紹運以下すべて討ち死にします。
島津軍は岩屋城を陥落させると、立花山城へ進軍します。
立花山城主・立花宗茂は、城から打って出て、
島津軍に奇襲攻撃を仕掛けます。
島津軍は宗茂軍の奇襲攻撃を受け、一時的に撤退。
その後も立花山城に攻撃を仕掛けますが、この城を陥落させることはできません。
立花山城にてこずっている間に、大友家の救援要請を受け入れた天下人・豊臣秀吉軍
が来援。
島津軍は豊臣軍と決戦を行いますが、天下の軍勢を引き入れた豊臣軍にボロ負け。
ついに今まで手に入れた九州の豪族はすべて豊臣家に味方し、
島津が陥落させた領地は次々と失っていきます。
義久はこの状況を覆すのは難しいと判断し、豊臣家に降伏することになります。
こうして島津家が握っていた九州の覇者の地位は失われることになります。
これが九州三国志の結末です。
「今回の三国志(日本)のお話はおしまいにゃ。
次回もまたはじさんでお会いしましょう
それじゃまたにゃ~。」