この記事の目次
司馬懿討伐に失敗した原因その1:仲間をたくさん集めようとしたこと
王陵(おうりょう)は司馬懿(しばい)討伐に失敗してしまう事になりますが、
何が原因で失敗することになったのでしょうか。
彼が司馬懿討伐に失敗した原因その1は仲間をたくさん集めようとした事が原因です。
後漢末期に曹操暗殺計画を立てた人達が失敗した原因のほとんどが、
仲間を集めすぎた事が原因で、計画がバレてしまった事が原因となっております。
王陵もこの曹操暗殺計画を知っていたはずですが、
この計画の失敗した原因を研究しなかったのか、同じ過ちを犯してしまいます。
王陵は単独でもそれなりの兵力を有しており、
挙兵すればそれなりに兵を集めることができた可能性はかなり高いです。
それなのに王陵は単独で挙兵するのが怖かったのか。
それとも仲間を集めて兵力を増大させた後に挙兵したかったのかはわかりません。
または世論を味方に集めて皇帝の廃立の正当性と
司馬懿討伐の正当性を訴えたかったのかは彼しかわからない為分かりません。
しかし仲間を集めて司馬家討伐を図ろうとしたことが原因で、
司馬懿討伐に失敗した事は明らかです。
司馬懿討伐に失敗した原因その2:謎の予言を信じて曹彪を皇帝にしようとしたこと
王陵は皇帝が幼い事が原因で司馬懿に魏の政権を握られてしまうと判断し、
司馬懿討伐に成功した暁には、新しい皇帝を立てようともくろんでおりました。
王陵が新しい皇帝に曹彪(そうひょう)を選んだ要因は、曹彪の領地である
兗州で流行っていた歌が要因となっております。
その歌とは「白馬が白い轡(くつわ)をはめて西南に向かおうとしている。
この白馬に乗っているのは朱虎騎(しゅこき)である」との歌が流行っておりました。
この歌の意味を王陵の配下が「白馬は曹彪様が以前居た国の名前じゃないか。
また朱虎とは曹彪様の字である。そして西南には魏の主要都市である許がある。
これは曹彪様を担いで皇帝にすれば、魏の国が栄えるとの暗示ではないのか」と
王陵に伝えます。
王陵は配下が伝えてきた歌と配下が解釈した内容を信じて、
司馬懿を討伐した後に曹彪を皇帝にすれば、
魏が栄えていく事になるであろうと信じたことが挙兵の原因の一つではないかと
思えます。
しかしこの歌にどの程度の信憑性があるのか、まったくわかりません。
もしかしたら司馬懿が故意に兗州近辺に流した流言の可能性もあります。
こんな怪しげな流行歌を信じたことが失敗した原因の一つではないかと
考えます。
司馬懿討伐に失敗した原因その3:思い切って呉と同盟を結んでいなかったこと
王陵が司馬懿討伐に失敗した原因のその3は呉と同盟を結ばなかった事だと
思われます。
なぜ呉と同盟を結ばなかったのでしょうか。
それは呉軍を幾度も打ち払った事が原因でしょう。
魏の領土を守るために魏の領地に何度も侵入してきた敵である
呉と同盟は成立しないと思い込んでいたのではないのでしょうか。
しかし王陵が本当に司馬懿討伐を考えて、
曹氏一族の政権を確立させる思いがあったのであれば、
呉と同盟を結んで援軍を要請したほうが、
司馬懿討伐の可能性は格段に上がったのではないかと思います。
だが王陵は呉に使者を送ろうとも考えずに、魏の領土内で仲間集めに奔走した事が
反乱失敗の原因となってしまいます。
この時、王陵が呉に使者を送り、「魏に反乱を起こすから、反乱を起こした際に援軍を
送ってほしい」と人質と共に呉へ送っていれば、孫権も彼を信用して王陵に援軍を
送っていた可能性は0ではありません。
このように外交をしっかりと行い、敵である呉を仲間に引き込んでいれば王陵の反乱は、
成功したのではないかと思います。
三国志ライター黒田廉の独り言
司馬家の専横を憎んで反乱を起こした王陵ですが、上記の理由から反乱は失敗に終わってしまいます。
曹操暗殺計画もそうですが、反乱を起こそうとしている人は見通しが少し甘い傾向にあるのではないかと
私は王陵を調べていて思いました。
もう少し反乱を起こす側が周到な計画を出していれば、反乱は成功するのではないのかなと思います。
「今回の三国志のお話はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃまたにゃ~」
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