八王の乱のメンバーと言えば皆、司馬がつく(当然っちゃ当然)、皇室の出(当然)、大体王に封じられている(これも当然)というそうそうたるメンバーでしたが、ここで更なる「司馬」の一人をご紹介しましょう。
その一人こそ、八王の乱のサブメンバーと言ってもいい、南陽王・司馬模。
その一手はもしかしてもしかしたら歴史を変えたかもしれない……そんな彼を紹介します。
南陽王・司馬模
司馬模、字は元表。司馬懿の弟の孫にあたり、八王の乱のメンバーであり、最後の生き残りでもある東海王・司馬越は兄に当たります。そんな彼自身の記録は少なく、幼い頃の記述は「若い頃から勉強好きで賢いと評判だった」とあるのみです。
とは言え、大体の歴史に記録された人は「若い頃は勉学に励んだ」「とても賢いと巷で大評判!」とあるような気がしますが……まあそれは置いときましょう。分かりやすく南陽王、と書いていますが、彼が南陽王に封じられたのは305年9月のことです。
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司馬模、デビュー
そんな司馬模が歴史に出てくるのは、八王の乱も終わりに近づいてきた時。司馬ガイの死後、司馬エイが皇太弟になり、司馬ギョウは大都督となりました。
しかし司馬エイはやりたい放題をしてしまったために諸将の恨みをかい、これに司馬越が挙兵。敗北した司馬越は東海へと逃亡、恵帝も捕らわれの身となりました。混乱する宮中を治めようと司馬エイは司馬越の弟たち、司馬摸らを呼んで和解しようとするも、司馬摸を含めた全員がこれに応じることはありませんでした。
司馬越の反撃
ここから、弟たちの和解に応じなかった毅然とした態度に応えるかのように、兄である司馬越の反撃が始まります。王浚と手を組んだ越は圧勝に圧勝を重ね、ギョウの土地を奪取。
エイたちは恵帝を連れ、長安へと撤退しました。この際に司馬ギョウは長安を首都としようとするも、結局洛陽と長安、二つの政府機関を置いたようになり、国家はますます混乱していきます。この際に司馬模は司馬穎に代わってギョウ城を任せられるようになりました。
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公師藩との戦い
こうして司馬顒と司馬越の対立が始まりました。この時に挙兵したのが司馬エイの旧臣、公師藩。これを知った司馬ギョウは彼を鎮東大将軍に任じてギョウに向かわせる、これを迎え撃つのが司馬摸らです。
当初こそ公師藩らが押していましたが、丁紹、司馬光、「エン州刺史・苟晞」らの救援によってこれを打ち破りました。この後、九月にいよいよ彼は南陽王に封じられます。
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司馬ギョウの失墜
こうなると司馬ギョウも何とか和睦をしようと試みました。しかしここで張方が反対。このままでは和睦を結べないと、司馬ギョウは張方を処刑、その首を司馬越の元に送って講和しようとしました。ですが既に司馬越に和睦という選択はありませんでした。
猛将の首を掲げて司馬越側は意気揚々と軍を進め、司馬ギョウの軍の士気はだだ下がり。長安までも陥落し、司馬ギョウは山中へと逃走することになったのです。
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