司馬炎(しばえん)ってどんな人?三国時代を終わらせたスケベ天下人


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司馬懿

 

司馬炎(しばえん)とは、司馬懿(しばい)の孫であり晋の初代皇帝です。西暦280年に呉を滅ぼして三国時代を終わらせた事実上の天下人です。しかし彼は、天下統一を境に以前とは別人のような暗君に転落してしまいます。

 

三国志のモブ 反乱

 

そして、ようやく統一された中国は、この司馬炎のせいでまた300年近い争乱の中に叩き落されてしまうのです。

 

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非の打ちどころのないプリンスの登場

司馬炎 はじめての三国志

 

司馬炎は、西暦236年、父を司馬昭(しばしょう)、母を王元姫(おうげんき)として河内郡に生まれます。幼い頃から容姿と才能に優れ、九品中正制度における人物のランクでは、河内郡では他に並ぶ物は無いと言うほどの高評価を受けます。

 

司馬懿、司馬師、司馬昭

 

そして、祖父、司馬懿や父、司馬昭が歴任した要職を着実に踏んで、権力の階段を上っていきました。


父、司馬昭の後を継いで晋王へ

劉禅

 

西暦265年、父である司馬昭が晋王になると、後継者に任命されます。

 

降伏する劉禅

 

司馬炎が後継者になる二年前の263年に蜀の劉禅(りゅうぜん)は降伏しており、残るは呉だけになっていました。

 

司馬攸

 

元々、後継者は司馬昭の兄である司馬師(しばし)を継いだ、司馬攸(しばゆう)でしたが、司馬炎を推す重臣の反対があり司馬昭は、その声を受けて司馬炎を後継者にします。

 

斉王になる司馬攸

 

しかし、司馬攸もかなり有能な人物であり、この人事は後に大きな粛清事件を

引き起こす事にもなります。

 

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西暦265年、父、司馬昭死去、司馬炎、晋の武帝へ

父、司馬昭死去、司馬炎、晋の武帝へ

 

司馬炎が後継者になった年の8月、司馬昭は晋王の肩書きで死去します。それを受けて、司馬炎は12月に、賈充(かじゅう)、裴秀(はいしゅう)、王沈(おうちん)、羊祜(ようこ)、荀勗(じゅんきょく)、石苞(せきほう)、陳騫(ちんさい)達と謀り、もう名ばかりとなっていた魏の元帝、曹奐(そうかん)に譲位を迫ります。

 

魏の旗をバックに戦争をする郭淮は魏の将軍

 

司馬炎は国号を晋にして初代皇帝、武帝に即位し、ここに曹丕(そうひ)から5代、45年程続いた魏王朝は崩壊します。西暦266年には、司馬炎は、司馬氏の皇族の27名を各地に派遣して、広大な領地と兵権を握らせました。これは、魏王朝が王族を警戒して兵権を与えず、領地も小さくしたので司馬一族の台頭を防げなかった事を教訓にしての事ですが、これは、後に裏目に出て、八王の乱を巻き起こす原因になります。

 

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司馬炎の名君時代

三国志を統一した司馬炎

 

晋の武帝の治世の最初は輝かしいものでした。まだ、南には呉があり南北朝の状態だったので、政治には賢臣を配置して、えこひいきにならないように、後漢の臣や魏、蜀の武将の末裔でも、能力があれば分け隔てなく登用しました。

 

諸葛一族

 

これにより、諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)の子孫や曹植(そうしょく)の息子の曹志(そうし)も仕官できています。まだまだ、気を抜いてはいけないという重圧が司馬炎に慢心を許さなかったのです。

 

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西暦280年、呉が降伏し司馬炎天下を統一

西暦280年、呉が降伏し司馬炎天下を統一

 

西暦279年、11月、国内統治でのびのびになっていた呉討伐の命令を司馬炎は発します。賈充と楊済(ようさい)を将軍に20万の晋軍が東西から呉の領土に進攻しました。

 

孫晧(孫皓)

 

呉帝の孫皓(そんこう)は暴君で人望がなく、おまけに佞臣の岑昏(しんこん)を重用したので呉軍の士気は最低で各地で晋軍に連戦連敗しました。

 

普に降参する孫皓

 

こうして翌年3月には、最後の拠点の石頭(せきとう)城が陥落し呉は滅亡します。

 

張角は歴史の表舞台に登場

 

西暦280年、やや呆気ない幕切れながら、ここに三国時代は終わります。張角(ちょうかく)の黄巾の乱から96年、約100年ぶりの統一です。

 

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ドスケベ司馬炎、1万人を後宮にいれてウッハウハ

悩む司馬炎

 

しかし、中国を統一するまでが、司馬炎のピークでした。中国内に敵が居なくなった司馬炎は政治に関心を無くしていきます。

 

呉南蛮異民族をボコボコにする潘濬(はんしゅん)

 

中国国内には、三国時代当時、曹操(そうそう)などが誘致した異民族が定住していて、脅威になりつつありましたが、司馬炎は家臣が「異民族を追い返しましょう」

と進言しても無視、また司馬炎の後継者の司馬衷(しば・り)は暗愚(あんぐ)で有名だったにも関わらずこれを廃嫡せず、逆にライバルになりそうな司馬攸を地方に飛ばして、その派閥を粛清するという私情丸出しの政治をします。

 

女性に溺れる司馬炎

 

そして、一番の問題は、後宮に呉の孫皓の囲った女性5000人を丸ごと吸収し自分が持っていた5000人の美女と合わせて1万人という大ハーレムを建設してしまった事です。

 

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スケベ丸出しの詔、朕(ちん)の後宮に入れる女を選ぶまで結婚禁止!

後宮 美女 階級

 

統一前の西暦273年、司馬炎は詔を出して女性の結婚を一時禁止します。その理由は、自分が後宮に入れる美女を選ぶ為でした。名だたる美女を1人も残さず自分の妻とする為に、女性の結婚を禁止したのです。

 

大喬・小喬侍らし酒を飲みたい曹操

 

曹操もかなりのスケベでしたが、司馬炎の好色は、けた外れです。

 

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宮殿に美女達の住む屋敷を幾つも造り、羊車で毎晩通う司馬炎

美女を集めた曹叡

 

こうして集めた1万人の美女に司馬炎は豪華な屋敷を幾つも建ててやり、自身は羊に引かせた車に乗り、その日、布団を共にする美女を探したと言います。美女達は、司馬炎の車を自宅に止めさせようと玄関先に羊の好きな盛り塩を置いて車が止まるように工夫をしました。こんなけた外れな事をするには、もちろん莫大なお金が必要で、やっと統一された晋の人々は重税に苦しめられる事になります。

 

幼い司馬衷

 

司馬炎は統一から10年後の西暦290年、56歳で死去します。政治は暗愚な司馬衷が継ぎ、無能な彼の元で八王の乱が勃発、司馬一族同士の無意味な殺し合いが数年続きます。それを見ていた晋領内の異民族が即座に攻め入り晋は滅亡への道を辿ります。

 

三國志ライター kawausoの独り言

kawauso 三国志

 

前半は名君、後半は暴君、或いは暗君というのは、中国の歴史では何名も見られます。唐の玄宗(げんそう)皇帝や明の万暦(ばんれき)帝などもそうです。しかし途中の皇帝ではなく王朝の創業者で、こうまでボンクラになる司馬炎のタイプは珍しいと言えます。

 

司馬炎に気に入られる孫秀

 

司馬炎が己の欲望をセーブして、せめて10年の治世を安定させていれば、晋がゴタゴタする事もなく、統一は長く続いたように思えてなりません。

 

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