人が生きていれば、時に避けられないのが訴訟ごとです。
もちろん、当事者同士で言い争っても、らちがあくわけはないので、
早い時代から、訴訟を担当する役所が存在していました。
そんな知られざる三国志時代の訴訟とは、どんな様子だったのでしょうか?
この記事の目次
県において訴訟を取り扱うのは県令
三国志の時代には、郡県制が敷かれているので、中央以外の行政は、
一番大きくて郡、その傘下に幾つかの県が入り行われていました。
県において、訴訟を扱うのは民事を担当する令(れい)です。
さらに軍事・警察を扱うのは尉(い)、それらの行政をチェックする
監察を行うのが丞(じょう)と言いました。
それぞれには、県の頭文字をつけて、県令、県尉、県丞と言います。
劉備(りゅうび)は若い頃、黄巾賊討伐の手柄で県尉に任命されて
いますから何となく身近に感じますね。
何と多額のお金を納めないといけない裁判
当時の裁判は、今と同様に民事(訟)と刑事(獄)に分かれていましたが、
いずれも無料ではありませんでした。
民事訴訟を起こした時には、被告原告双方が矢を100本納めます。
これで訴訟に勝利すると矢は返却されますが負けると没収です。
また刑事訴訟は、ことが重大である事から鈞(ちょう)金を納めました。
これは黄金三十斤で重さ6681グラムだそうです。
矢100本は兎も角、黄金6681グラムは簡単には用意できません。
よくよく考えてから相手を訴えろよという意味でしょうが、
庶民では刑事訴訟を起こすのは無理だと考えていいでしょう。
被告も原告も地面に土下座
さて、裁判風景ですが、今なら、被告が中央の座席に座るという感じですが、
後漢時代は、裁きを下す県令が正面の席に座り、被告も原告も中庭に
土下座だったようで、敷物が敷かれる事もありません。
なんか、県令だけが偉くて、被告原告が双方罪人みたいな扱いですね。
被告原告を顔合わせさせて、取っ組み合いのケンカにならなかったのでしょうか?
地位があるヤツは裁判に出席しないで代理を置く
また、こういう屈辱的な扱いを受ける事から、官位を保有するエリートは
男女共に裁判には出廷せず、代理として家臣や下僕を座らせていました。
被告と原告がどっちも貴族なら、双方にまるで事件と関係ない人が、
黙って土下座する事になります、、何か変な光景ですね。
貧乏人の救済制度、肺石(はいせき)
さて、訴訟を起こそうにも、矢も黄金も納められない貧乏人には、
救済措置として、肺石という黄色い石が用意されました。
どうにも我慢できない事がある人は、この肺石の上に立ち、
訴えたい事を述べると、それを役人が聞き届けて王に告げ、
正当であると認めると、訴えられた相手は処罰されました。
ただし、調べて正当ではないとされると罰がありましたから
気軽に使えるモノでは無かったようです。
訴訟が決着しなかった時の最終手段
しかし、被告原告、双方の言い分を調べても、
どちらが悪いとも言い切れないケースがあります。
むしろ、民事訴訟なら、そっちの方が多いでしょう。
そのような場合には、県令は原告と被告を神に誓わせます。
そして、「嘘偽りを申した者には天罰を」と告げるのです。
この誓いの巧妙なのは、原告と被告だけでなく、
土地の人間にも生贄と酒を出させる事で、つまり不正に
味方した村人も天罰を受けるという意味でした。
当時は迷信深い時代なので、よほど自分は悪くないと確信している
人以外は、あっさり白状しましたし、真実を目撃しながら、
黙っている村人も天罰を恐れて、こっそり密告する事もありました。
死罪も金で解決できる、納得いかない制度
そのようにして有罪になり、例えば死罪を求刑されても、
その罪を金で購うシステムが三国志の時代にはありました。
例えば死罪は絹二十匹でチャラに出来たと記録にあります。
絹二十匹とは、絹の反物を460メートルという事です。
また、髠(こん:頭髪を剃る)首かせ、足切り、城旦(辺境の警備)
舂(従者の食事を造る:女性の刑)などは、絹十匹でした。
当時、絹は幣帛と呼ばれ、一定の大きさで流通する時には、
貨幣の代わりになっていたのです。
「まさに地獄の沙汰も金次第、金があれば、死罪をまぬがれ、
金がないと生命を失う、これぞ、ゲスの極み!!」
このように三国志の時代は、かなりリーガルハイな感じでした。
三国志ライターkawausoの独り言
いかがだったでしょうか?
三国志の時代の訴訟は、お金はかかるは地面に土下座だわ、、
訴訟を起こした側が貴族の場合には、代理人が代わりに裁判を受けるわ
なんだか、ヘンテコな感じではないでしょうか?
ここから考えると、三国志の時代の訴訟は、
そこまで多くなかったかも知れませんね。
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