※こちらの記事は「シミルボン」専用オリジナルコンテンツです。
王という文字は、元々鉞(まさかり)を意味していたそうです。
どうして、王が鉞かというと、この鉞で法に背いた人間の首を刎ねる権利が
与えられていたからだと言われています。
三国志のような戦乱の世界には、法を侵して、或いは無実の罪で処刑される
人間がいましたが、それにも細かい作法がありました。
今回は血も凍る、リアル三国志の処刑法をご紹介します。
受刑者を乗せる台、鍖
まず、三国志の時代における処刑は剣ではなく斧を使用しています。
斧は重量があり力が入るので太い首を落すには都合がよい道具でした。
しかし、その重さゆえに水平体勢では扱いづらく失敗するリスクがあるので
必然的に受刑者を寝かせて、斧を振り下ろす形になります。
この受刑者を寝かせる台を鍖(ちん)といい、細長い枕木を意味しています。
受刑者は、この鍖にうつ伏せに寝る姿勢になります。
何が恐ろしいって、うつぶせなので首が落ちる瞬間まで受刑者は、
首切り役人の様子が見られない事ですね。
※参考文献 中国社会風俗史
受刑者の心得
冷静に考えると処刑される立場で、マナーも何もないのですが、受刑者の方も
首切り役人が仕事をやり損なわないように相応のマナーが求められました。
リアルな話、取り乱して処刑が長引くと一番痛い思いをするのは受刑者ですから、
速やかに苦痛を終わらせるべく、なすべき事があったのです。
実際に出土した罪人の遺骨には、斬首の恐怖に耐えられなかったり
執行人が失敗した結果、首以外のあちこちに欠損がある骨もあるのです。
逆に、処刑人が勢い余り、首の骨と一緒にアゴの骨の一部まで
ざっくりカットした、見るからに痛い遺骨もあります。
そのマナーですが、当時の人は寝る時以外は冠を被っているので
首を斬る時に邪魔になる冠の纓(えい:アゴ紐)を上にまくりあげ、
さらに衣服の衽(じん:おくみ)も腰を斬る時の邪魔にならないように、
衣服に挟んで腰の上まで掲げていました。
これは春秋戦国時代の人物、斉の管仲(かんちゅう)という人の業績を書いた
管子にある記述ですが、首だけでなく腰も斬りやすくするという事は、
斬首した上に、腰までも真っ二つにするという刑があったのかも知れません。
大根じゃないんですから、勘弁して欲しいです・・
※参考文献 管子
処刑した後は3日間、晒される決まり
首が斬り落されたら、それで終わりかというとそうではありません。
論語の憲問によると「諸(これ)を市朝に肆(さら)す」と言い、
死刑が執行された場所で3日間、放置される決まりでした。
ただ、晒すだけではなく、時には、罪状を記した木簡も死体に
添えられたと言いますから、見せしめの意味合いもあったようです。
晒される場所も、朝廷であったり、市場であったり、
人も通らない荒野である場合もありました。
荒野の場合には、死体が野良犬や野鳥に損壊される事を
狙っての方法であり、強い恨みが入っています。
斬首刑でも罪状が人倫に関する場合、棄死(きし)といい
埋葬を許さず遺体を朽ち果てるままにする刑罰もありました。
三国志の董卓も、斬首の決まりにより晒された
斬首された死体を晒すという行為は古代に多く、漢代になると
少なくなりますが、三国志髄一の暴君、董卓(とうたく)は
横暴の限りを尽くして、都、長安の人々に恨まれた挙げ句、
司徒王允(おういん)の計略で腹心の呂布(りょふ)に暗殺され、
首を斬り落として長安の大通りで晒されました。
董卓は相当に肥満していて、死後は体から脂が流れだしたので、
試しに、ある人が董卓の臍に燈芯を置いて火をつけると脂で
何日間も燃え続けたので、これを卓蝋(たくろう)と呼んだという話です。
こうまでされても、誰も董卓を哀れと思う人もなく、董卓の死後、
皆、なけなしのお金で肉を買い、ご馳走を造って隣近所の人と
しばらくお祝いを続けたと言いますから、董卓がどれだけ嫌われていたか
そのレベルが分ります。
【シミルボン】人間の発想怖過ぎる!血も凍る三国志時代の処刑方法
の続きは、「シミルボン」内のページで読めます。
続きが気になる方は、「シミルボン」にアクセスしよう!
※本稿はシミルボンに掲載された記事をはじめての三国志用に再編集したものです