【軍師連盟】魏の名君・曹叡が長生きしたら司馬一族の天下取りは不可能だった?

2016年10月24日


 

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曹叡

 

実は曹叡(そうえい)の病死した歳は36歳という説と34歳というふたつの説があります。

陳寿(ちんじゅ)の説が正しければ36歳ということになりますが、

これだと曹操(そうそう)の息子の曹丕(そうひ)が、

落城した鄴城にいた甄皇后を略奪する前ということにもなります。

つまり甄皇后は前夫である袁熙の子をその腹に宿していたことになるのです。

 

曹叡

 

曹叡が実は曹丕の子ではなく、袁熙の子ではないかと疑われているのはそのためです。

甄皇后は曹丕にとって年上女房でしたが、曹丕が一目惚れして妻として迎えました。

敵将の妻を側室ではなく妻にすることに曹操も難渋しましたが、

曹丕の固い決意を見て了承したといいます。

しかし、あるときを境に甄皇后は曹丕の寵愛を失います。

甄皇后は西暦221年に曹丕から自害を命じられ、

柩におさめることを許されず、髪を振り乱した状態で口にぬかを詰められて葬られました。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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屈折した愛情

曹丕 残忍

 

継母となったのは郭皇后という女性でした。

彼女が死んだとき、曹叡は生母である甄皇后が受けた仕打ちと同じような状態で葬ります。

生母の仇討ちの心情だったに違いありません。

それ以前に、曹丕はある時期を境に曹叡を家臣たちの前に出すことをしなくなりました。

曹操は孫である曹叡を可愛がり、

「わが基はこの子で三代となる」と明言したほどその才を愛しましたが、

魏の初代皇帝となった文帝(曹丕)はその死の直前まで曹叡を皇太子に認めませんでした。

曹丕はいつしか我が子である曹叡が袁熙の子であると疑い始めたのかもしれません。

それが果たして誰の入れ知恵なのか……。恐らくは側近の誰かなのでしょう。

曹丕の側近には陳羣や呉質、そしてあの「軍師連盟」の主役となる司馬懿がいました。

 



二代目皇帝・明帝

曹叡

 

曹叡は24歳で即位します。明帝の誕生です。

生母である甄皇后に皇后の位を追贈したのはこのときです。

諡号は文昭皇后。

明帝は祖父である曹操譲りの才を持っていたとされています。

戦いでは呉の侵攻を迎撃し、蜀の諸葛亮孔明の北伐に対し司馬懿などを指揮して対処し、

独立した遼東の公孫淵も追討の命令を下してこれを討ちます。

軍師連盟にもこれらの場面は細かく描かれることでしょう。

 

宮殿 労働者

 

明帝の内政の腕もまずまずでしたが、

諸葛亮孔明が病没してからは緊張の糸が切れたように無謀な命令を下すようになります。

洛陽の宮殿である御苑を大規模工事し、築山のために群臣を動員します。

さらに後宮にたくさんの女性を集めました。

無理に離縁させて宮女とさせた例も多くあったといわれています。

これらの暴挙に反発心を覚える臣もかなりいたことでしょう。

明帝は猛反発を買いながら西暦239年に病死します。

太子は素性がよくわかっていない曹芳で、わずか8歳で即位しています。

後見役に指名されたのは曹氏一族の代表として

曹爽(曹真の子で、実際は曹氏の血脈ではない)と実績のある官僚・司馬懿でした。

 

曹芳を廃する

司馬師

 

西暦254年、23歳となった三代目皇帝・曹芳を廃したのは司馬懿の息子である司馬師(しばし)です。

司馬氏の政敵と繋がった曹芳が邪魔になったというわけです。

司馬氏は司馬懿が西暦249年にクーデターを起こして曹爽を処刑してからというもの、

常に権力の中枢にありました。

よって皇帝を廃するほどの力を司馬氏は有することになったのです。

次代の皇帝になった曹髦は司馬氏の専制に憤り、

西暦260年にクーデターを起こして20歳の若さで返り討ちにあい、殺されます。

こうして魏の国は完全に司馬氏の手に握られることになります。

 

三国志ライター ろひもと理穂の独り言

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曹氏の衰退には曹氏の評判を落とす暴挙や失政がありました。

それを裏で誘導したのが側近である司馬懿であったとするならば、まさにしたたかです。

しかも表舞台では司馬懿は戦場で活躍し、実績と名声を手にしています。

曹叡は名君の品格を備えていましたが、素性が複雑で、

少年の頃に生母を失ったトラウマもあって口吃で、寡黙だったそうです。

歪んだ愛情表現は引き継がれ、曹叡自身も正室の毛皇后に死を賜っています。

果たして曹叡が長命だったとして、魏の国は健全に発展したのでしょうか。

むしろ司馬氏のつけ入る隙が大きくなったのではないでしょうか。

曹丕、曹叡の才ではやはり司馬懿には太刀打ちできません。

であるならば、司馬氏の隆盛は自然の流れだったに違いありません。

司馬懿を真に抑え、操縦できたのはその才に匹敵する曹操だけだったのではないでしょうか。

軍師連盟でもその繋がりはきっと語られることになるでしょう。

 

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