小覇王と名付けられ快進撃を続け江東を制覇した孫策(そんさく)。
彼はその驚異的な戦の才能によって江東のみならず荊州や徐州にまで、
勢力を拡大しようと考えておりました。
しかし急激な領土拡大によって孫家に従いたくないという江東の豪族達が数多く存在しており、
彼らをどのようにして孫家に従わせるのかによって今後の孫呉の命運を分けるものでした。
だが孫策はこうした状況に置かれていたにも関わらず、ある人物を殺害してしまいます。
その人物を殺害したことが孫家を滅ぼす原因になったかもしれないのをご存知でしょうか。
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孫堅の尊敬を集めていた名士達
孫堅は会稽出身の武将で若い頃海賊を討伐したことがきっかけで、
出世していくことになるのですが、呉の四姓と言われる名族達に敬意を払っておりました。
呉の四姓と呼ばれる人達は陸氏(りくし)・顧氏(こし)・朱氏(しゅし)・張氏(ちょうし)と呼ばれる
五人でした。
彼らは江東では非常に名声高く、各地の豪族達から敬われている存在でした。
孫堅はこの四人の内、一番の有名人であった陸氏から救援要請を得ると、
すぐに軍勢を率いて彼を助けることに成功しております。
このようにして呉の四姓と仲良くしていこうと考えていた矢先に孫堅は戦死してしまいます。
袁術から独立する前の孫策
孫策は父の上司であった袁術に身を寄せることになります。
彼は袁術の元ですくすくと育っていき、青年になると軍勢を与えられて各地の豪族達を討伐する
戦にも参加しておりました。
だが彼は袁術の元で一生を終えるつもりは毛頭なく、いつか独立してやろうと考えていたこともあり、
各地のならず者達の元を歩き回って少しづつですが、自らの勢力を築き上げていきます。
父が助けた陸氏を尋ねる
孫策は以前父が助けた陸氏に袁術から独立した際に協力してもらおうと考えて、
彼の元を訪ねます。
孫策が訪ねた時の陸氏の当主は陸康(りくこう)です。
孫策は身なりを綺麗にしてビシッとした姿で彼を訪ねますが、
陸康は孫策に会うのが面倒で、自らの部下に対応させることにします。
孫策は自ら訪ねてきたのに会おうとしない陸康にイラっとしていましたが、
呉の四姓と言われる名士に協力を仰ぎたいと考えていたので、
イライラを表情に出すことなく、自らが陸康を訪ねてきた理由を述べます。
陸康は孫策から協力をして欲しいことを役人から聞くと「めんどいから断って」と
孫策の協力をしないことを明言します。
孫策は自ら訪ねてきたにも関わらず、当主が出てこないことに腹を立てており、
協力することも断られてしまった為、陸康を大いに恨むことに。
陸康の一族を殺害する
孫策は袁術から独立して江東へ攻め込みこの地のほとんどを制圧することに成功します。
この時に彼は陸康が本拠を攻撃して、以前の恨みを晴らしており、
陸康の一族の大半は孫策によって殺害されてしまうことになります。
しかしこれが孫策の最大の失敗の一つになってしまいます。
孫策死後、孫権が孫家の当主として君臨すると江東の豪族達から優秀な人材を採用して
孫権の政権に参加させることになります。
しかし呉の四姓と言われた名士達との関係は中々回復することができず、
かなりの年月を要することになります。
陸遜(りくそん)が孫権の政権にすぐに参加しなかったのは、
陸康を殺害されたことへのしこりが残っていたためです。
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三国志ライター黒田レンのひとりごと
孫家の政権が呉を支配していく中で一番の問題は豪族達の問題でした。
孫呉は豪族の連合体の当主として君臨している政権で、
もし豪族達が孫家が嫌になって反乱を起こして、新たな君主を上に持ってくることも可能でした。
このようなことをさせないために孫権は豪族達をなだめたり、持ち上げたり、
機嫌をとったりと色々なことをしなければなりませんでした。
このようなことをしなくてはならない原因を作ったのは孫策で、
陸氏を殺害したことで呉の四姓は孫呉を恨むようになり、
彼ら豪族達の気持ちをなだめることは呉のラスト・エンペラー孫皓(そんこう)の時代になっても、
続いておりました。
もし孫策が陸氏を殺害しないで、彼を取り込むことに成功していれば、
歴史は違ったものになった可能性はかなり高いと思います。
参考文献 朝倉書店 十八史略で読む三国志 渡邉義浩著など
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—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—