豊臣秀吉の軍師として活躍した黒田官兵衛(くろだかんべえ)。彼は関ヶ原の戦いの時が終わった後、息子長政が領地に帰国した際に「家康殿は私の手を三度握って感謝してくれました。」と自慢話をしてきます。
この時官兵衛は「どっちの手を握ってきたのか」と訪ねます。すると「右手です」と長政は答えます。官兵衛は長政の言葉を聞いた後「お前の左手は何をしていたのだ」と尋ねたそうです。
この言葉の真意はお前の左手はなんで家康を刺さなかったのかと言う意味をほのめかしているのですが、この逸話は後に作られている創作のおはなしです。
しかし何もないところからこのような話が出るとは考えに国のですが、本当に官兵衛は長政の活躍を苦々しく思っていたのでしょうか。今回は官兵衛は果たして息子長政の活躍を苦々しく思っていたのかどうか考えてみたいと思います。
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この記事の目次
長政の活躍とは:1 福島正則を味方につけた
黒田官兵衛が息子である黒田長政の活躍を苦々しく思っていたのかを考える前に、息子長政の活躍を知らなくてはなりません。長政は関ヶ原の戦いの時に西軍へ内応工作を行った活躍が認められて、関ヶ原の戦い後52万石の大大名へ出世することになります。
長政は関ヶ原の戦いの時にどのような活躍をしたのでしょうか。一つ目は福島正則を東軍へ参加させたことです。福島正則は豊臣秀吉の古参の家臣で、豊臣家に対しては非常に忠誠心の高い人物でした。そのため彼が西軍へ味方してしまえば徳川へ味方しようとしている者達も正則に引きづられて、豊臣へ味方してしまうかもしれません。
そこで長政は正則に対して説得を幾度も行い豊臣へ味方しないように工作を行います。この工作は成功し、徳川家康が主催者として今後の方針を決める小山会議では正則が東軍諸将を前にして家康に味方することを誓います。
正則が味方することを宣誓したことで、東軍に参加していた豊臣恩顧の大名達が家康へ味方することになるのです。
長政の活躍とは:2 吉川広家を味方につけた
家康は関ヶ原の戦いが行われた時敵軍である毛利軍が陣取っている山の近くに本陣を据えます。もしこの時西軍に参加していた毛利軍が山を降りて家康本陣めがけて攻撃を仕掛ければ、一瞬にして関ヶ原の戦いは終了することになったでしょう。
しかし毛利軍は家康本隊へ攻撃を仕掛けることなく関ヶ原の戦いを終えることになります。なぜ毛利軍は攻撃を仕掛けなかったのでしょうか。
それは毛利軍の実質的な総大将であった吉川広家に対して、黒田長政が寝返り工作を行っていたからです。吉川家と黒田家は秀吉が天下統一する前から仲がよく、吉川元春(きっかわもとはる)と黒田官兵衛も非常に親密な間柄でした。
元春の跡を継いだ広家の時代になっても両家の親密な間柄は色褪せることなく続いており、関ヶ原の戦いが始まる前に広家から長政へ寝返りたいとの申し出があり、長政はこの申し出を家康に取り次いだことがきっかけで、毛利軍が関ヶ原の戦いが行われているときは一切軍事的な行動を起こすことはないと徳川へ密約を行っております。
長政の活躍とは:小早川秀秋を味方につけた
関ヶ原の戦いで徳川家康を勝利へ導くことができたのは、小早川秀秋の寝返りがあったからといっても過言ではありません。彼が西軍から東軍へ寝返りを行ったきっかけを作ったのも長政の活躍があったからです。
長政は小早川秀秋へ工作を行っており、この工作が成功したことがきっかけで秀秋は東軍へ寝返ることになります。上記三つが関ヶ原の戦いにおける長政の活躍です。
しかしこれらの活躍は官兵衛が事前に工作していた?
上記三つの工作ですが、一つ目の福島正則へ工作を行った事以外、実は長政の父親である黒田官兵衛が関ヶ原の戦いが起きる前に事前に工作をしていた事が、資料によって明らかにされています。
官兵衛は吉川元春の時代から仲が良かったこともあり、元春の息子である広家に対して事前に「豊臣と徳川が戦うことになれば徳川へ味方するように」と事前にアドバイスを行っており、秀秋に対しても一説によれば官兵衛が事前に寝返りを促すような根回しをしていたそうです。
長政が立てた功績の半分以上に官兵衛が関与しているのであれば・・・・
もし官兵衛が長政の工作に半分以上関与しているのであれば、関ヶ原の戦いの後、息子の活躍を苦々しく官兵衛が思うのでしょうか。レンは官兵衛が息子の活躍を苦々しく思っていなかったと考えます。その理由として九州での官兵衛の活躍が挙げられます。
九州を数ヵ月で席巻するも家康の命令で戦いをやめた官兵衛
黒田官兵衛は東軍・西軍が集結することになると息子長政を見送り、自らは領地である豊前・中津城(なかつじょう)で留守番を行っております。しかし彼は自らが一生懸命貯めた金銀財宝を消費して募兵を開始。
この募兵の結果、留守部隊と合わせて約4000人ほどの兵力を抱えることに成功します。官兵衛は事前に徳川家康へ九州の西軍諸将の領土攻略を行っても良いとの約束をもらっていることから、募兵を行って兵力を確保するとすぐに西軍諸将の領土へ攻撃を行います。
この結果、九州の東軍に味方していた鍋島、加藤らと合流し、西軍に属していた立花・小早川、大友などを降して薩摩(さつま)の島津攻略へ向かいます。だが島津攻略を始めようとした矢先に家康からの攻撃中止命令が届いたことがきっかけで、彼は軍勢を解散して本拠地である中津城へ帰還しております。
もし彼に野心があるのであれば家康の命令を聞く必要はないと思いませんか。官兵衛は九州のほとんどを味方につけており、島津も当主島津義弘が徳川軍にボコボコにされながらなんとか帰還している有様で、徳川に恨みこそあれ味方する理由はないでしょう。
ならば官兵衛の交渉力で島津を説得して仲間に引き入れてしまえば九州制覇は完了です。そして中国の毛利とは秀吉時代からの付き合いであり、吉川広家を動かして毛利軍の協力を得れば中国・九州地方の兵力を率いて家康と戦うことも可能であったはずだと考えます。(レンの勝手な予想ですが・・・・)
官兵衛がレンの予想や他のことを考えて家康に楯突くことをしなかったのは、官兵衛に野心がない証拠ではないのでしょうか。
戦国史ライター黒田レンの独り言
官兵衛に野心がないから息子の活躍を苦々しく思っていないとレンは考えます。関ヶ原の戦いの時に官兵衛が吉川・小早川などの諸将へ事前に工作していたことや九州地方のほとんどを手中に収めていたのにも関わらず、家康の停戦命令を聞いて戦をやめたことを考えると官兵衛には野心がないと考えるのが妥当です。
黒田官兵衛に野心がないのになぜ関ヶ原の戦いにおける息子の活躍を苦々しく思うのでしょうか。もし長政の活躍を本当に苦々しく思っていたのであれば、長政の謀略面にではないのでしょうか。
官兵衛は秀吉の軍師として謀略に長けているので、長政へ「もうちょっとなんとかならんのかお前の調略は!!」と不満を持っていたのではないのでしょうか。上記を理由に官兵衛が不満を持っているのであれば納得がいきます。
例えば小早川秀秋の寝返りにしても、彼が寝返ったのは関ヶ原の戦いの最終局面です。官兵衛に言わせれば「もう少し早めに彼を寝返らせれば、もっとスムーズに東軍の勝利が決まっていただろう。詰めが甘いぞ長政!!」ということなどこれら謀略面に不満を持っていたのではないのでしょうか。
結論として官兵衛が苦々しく思っていたのは、これら長政の謀略面に対しての不満を持っていたと考えることができるのではないのでしょうか。皆さんはどのように考えますか。
参考文献 黒田官兵衛 「天下を狙った軍師」の実像 諏訪勝則著など
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